5分間の奇跡


朝から、冷たい雨だった。
誰かに呼び止められたような気がして、村瀬誠は振り向いた。
傘を上げると、目の前には老婆が一人。何か言っているようだが、誠の耳には届かない。

(・・・ああ)

誠は、耳にしていたヘッドフォンを外すと、老婆に向かって尋ねた。

「どうしました?」
「私、お金をなくしてしまって・・・」

と、相手が差し出したのは一枚のテレフォンカードだった。

「今時、テレフォンカードなんて使わないと思うけど・・・よかったら、買ってくれないかしら。」
「・・・・・・。」
「もちろん、残っている度数よりも安くて構わないから。」

確かに、相手の言う通りだった。今は誰もが携帯電話を持っている時代であり、もちろん誠もその例外
ではない。さらに、街中の公衆電話は数が減った上、専用のカード以外は使えない場所も多い。
差し出されたカードは、特に変わった意匠を凝らしたものでもなかった。つまり、このテレフォンカードを
買うことに、特に意味はないということだ。
それでも、誠は頷いた。足を止めたのも、何かの縁だろう・・・ と思ったからだ。

「いいですよ。・・・いくらですか?」

相手の口にした金額を渡す。何度もお辞儀をしながら去っていく相手に軽く手を振ると、誠はカードを
ポケットにしまい、また歩き出した。
雨は静かに降り続いている。


  *


(えーと・・・あった)

かなり探し回って、ようやく見つけた普通の電話ボックス。扉を押し、傘を畳むと中に入る。
電話ボックスには、一種独特の雰囲気がある。一歩そこに足を踏み入れると、都会の喧騒は薄れ・・・
色ガラス越しに見える風景も、何だかいつもと違って見えるのだ。
東京に出てきたばかりの頃。携帯電話を持っていなかった誠は、よくここから故郷に電話をかけた
ものだった。遠距離とあって時間は限られていたが、それでも両親は喜んでくれた。
携帯電話を手に入れ、いつでも電話ができるようになった今は、逆にその機会は減っている。皮肉な
もんだな・・・と、そのことを思い出した誠は束の間苦笑いをした。

(さてと・・・)

携帯電話を取り出し、アドレス帳を開く。ページを繰っていた誠の目が、ある番号に留まった。
しばらくの間逡巡した誠は、やがて一つ一つ番号をプッシュし始めた。・・・考えてみれば、電話番号を
一つ一つ打ち込むのも久し振りである。
受話器を耳に当てる。
この番号に電話をしなくなってから、もう一年以上が経っていた。それでも、アドレス帳から番号を
消せなかったのは、多分―――――

(・・・!)

呼び出し音が聞こえた。それが六回目になったとき、相手の声が聞こえた。

『はい、成田です。』

誠は、一瞬受話器を取り落としかけた。
そもそも、この番号に電話が繋がるとは思っていなかったのだ。そして、万が一かかった場合は・・・
誰か別人が出るはずだった。
しかし、相手ははっきりと「成田」と言った。
では、この電話の向こうにいるのは、一体誰なのか。姉妹がいるとは聞いていない。

『・・・もしもし?』
「あ・・・あの・・・」

混乱した頭には、まともな言葉は浮かんでこなかった。震える声で、ようやくそれだけ言った誠
だったが、相手はそれで電話の相手が誰だか分かったようだった。

『もしかして・・・誠さん?』
「うん・・・。そっちは・・・由佳さんですか?」
『変わってないのね。・・・まだ、丁寧語なんだ。』
「あ、ごめん。」

電話口で、相手は苦笑したようだった。
付き合い始めて半年、なかなか丁寧語で話すという癖が抜けない誠は、よく「そんなに固くならないで」
と言われたものだった。

しばらく、とりとめのない話をした。
台風の多かった今年の夏のこと。世間を騒がせているニュース。・・・不思議と、話題は通じた
ようだった。
「今、どうしているの」とは、聞かなかった。相手の口から、辛い現実を再び突き付けられるのが
怖かったからだ。

『あなたのことは、ずっと見ていたの。・・・私がいなくなって、しばらくは本当に心配だった。』
「・・・・・・。」
『でも、今は立ち直れたみたいね。・・・ちょっと安心した。』

別に、立ち直ってなんかいない。意識して、そのことを考えないようにして・・・無気力に日々を生きて
いるだけだ。
言うことはできなかった。それは、相手の責任ではないのだから。
相手の口調に、僅かに切実なものが混じる。

『誠さん。・・・最後に、一つお願いがあるの。』
「・・・なんですか?」
『一度だけ。・・・名前を、呼び捨てで呼んでもらえない?』
「・・・・・・。」
『それで、私も・・・何か、吹っ切れそうな気がするの。』
「分かりました。」

決心し、小さく息を吸い込む。
名前を呼ぼうとした瞬間、そこで電話は切れた。カードの度数がなくなったのだ。

「・・・由佳。」

構わずに、小さな声で相手の名前を呼ぶ。

(・・・・・・)

誠は受話器をかけると、電話ボックスの外に出た。
雨はまだ降り続いていたが、傘を差す気にはなれなかった。
空を見上げると、眼鏡の上に点々と雨粒が落ちてくる。それも、じきにぼやけて見えなくなった。
あの電話は、一体どこに繋がったのだろう。
携帯電話で、かけ直す気はなかった。多分、今は使われてない番号だということが、何となく分かった
からだ。

(このカードは、捨てられないな・・・)

カードを握り締めると、誠は歩き出した。
冷たい雨は、なぜか気にならなくなっていた。


あとがき

テレフォンカードを買ったのは実話です(笑)。実際、もう使い道はなさそうなんですけど・・・こんなことが
あればいいな、と思ってこの話を書きました。
ちなみに、他のエピソードはまあ、かなり実話というか・・・ごにょごにょ。ま、あまり深く詮索はしないで
ください。