ノスタルジー


(・・・?)

教室の扉を出たところで、村瀬誠はふとした違和感を覚えて顔を上げた。
季節は梅雨の真っ只中。この日も、朝からすっきりしない天気だった。・・・ただ、やたらに蒸し暑い。
大学の省エネ方針によるものなのか、教室に設置されたクーラーは今日も使われなかった。代わりに
窓が開けられていたが、肝心の風がろくに吹かない状況では意味がない。そんな部屋に五百人からの
学生と共に朝早くから詰め込まれ、大して面白くもない講義を聞かされるのである。彼がいい加減
疲れた表情をしていても、それは仕方のないことだった。

(あれ・・・)

そのまま視線を左に転じた誠は、僅かに目を見開いた。
誠が講義を受けていた教室は建物の三階にあった。この階にある教室はここだけであり、教室の
出口はすぐに階下へと通じる階段になっていたはずだった。
だが、その日に限っては出口の左側―――――本来なら壁があるだけの場所―――――に廊下が
続いていたのだった。そこから見えている廊下や教室の様子はこちら側と変わらなかったが、ただ一点
大きく違ったのは窓から見える風景だった。向こうの窓から覗いているのは、梅雨時特有のどんよりと
曇った空ではなく、初夏の日光に満ち溢れた明るい外の風景・・・この時期には望んでもなかなか
見られないものである。

(これって幻かな? とうとうおかしくなったかな、僕も・・・)

ここのところの熱帯夜続きでよく眠れていなかった誠は、ぼんやりとした頭でそんなことを考えた。
毎日続く味気ない授業と課題の山、都会でのストレスの多い生活・・・そしてここのところの鬱陶しい
気候。・・・いい加減、何もかもを投げ捨ててみたかった。

(・・・・・・)

別に、この世界に格別の思い入れがあるわけじゃない。戻れないなら、それはそれでいいさ。
小さく肩を竦めると、誠は“もう一つの世界”に向かって歩き出した。


  *


誠が足を踏み入れた“もう一つの世界”の校舎には、別に特に変わった様子はなかった。教室の
配置も同じだったし、行われている授業も普段通り。ただ、学生も教授も実に楽しそうにしているのが
現実の世界との唯一の・・・そして最大の違いだろうか。

「やあ、今日もいい天気だね!」
「あっ・・・ああ、・・・うん。」

通りすがりの学生に笑顔で挨拶され、慌てた誠は口の中で小さく呟いた。
知らない人に挨拶されるなんて、久しぶりだった。故郷では当たり前だったこの習慣が、東京では
通じないと知ってからもう三年・・・最近では、すっかりそれにも慣れてしまった。

(何か変だ・・・けど、懐かしい気もする・・・)

一階に戻った誠は、そのまま校舎の外に出た。
太陽の光は強烈だったが、不思議と暑さは気にならない。爽やかな風が誠を包む。

(気持ちいいな・・・)

誠は伸びをすると深呼吸した。・・・ささくれ立っていた気持ちが、少しずつほぐされていく。
普段だったらタバコの煙や排気ガスで汚れているはずの大気は、その日に限っては瑞々しい緑の
香りに満ちていた・・・よく見ると、中庭や構内の通路に街路樹として植えられている木々も、いつもより
ずっと元気そうである。
そして、近くを走る私鉄の走行音や、大学前にある大通りを通る車の音もなぜか今日は聞こえて
来ない。代わりに、鳥や蝉の声が遠くから響いてくる。

(こういう場所なら・・・昼寝したら気持ちいいんだろうなぁ・・・)

最近の熱帯夜続きのため、いい加減疲れも溜まっている。
誠はこうして校舎前に設置されているベンチに腰掛けると、そのまま目を閉じたのだった。


  *


「ねえちょっと。」

(・・・?)

うとうとしかけていた誠は、不意にかけられた声に目を開けた。見ると、目の前に高校生くらいの
少年が立っている。今時珍しい質素な服装が印象的である。
普段だったら無視するか、「あっちへ行け!」と怒鳴ってしまうのが関の山だったろう。だが、久方
ぶりに穏やかな気持ちになっていた誠は、笑顔すら浮かべてその少年に答えたのだった。

「・・・何だい?」
「こんないいお天気にお昼寝なんてもったいないよ。・・・キャッチボールの相手を探してるんだけど、
良かったら一緒にやらない?」
「キ・・・キャッチボール?」
「そう。」
「うーん・・・。」

誠は考え込んだ。思えば、授業以外で運動をするなんて最近では考えもしなくなっていた。時間がない
わけではなかったが、何より場所と・・・相手がいなかったからだ。
それにしても・・・こうして、知らない相手から遊びに誘われるのはいつ以来のことだろうか。小学校や
中学校では当たり前のようにしていたはずなのに―――――

(久しぶりに・・・やってみるかな)

「・・・うん。」
「じゃ、こっち。ついて来て。」

誠の返事を聞いてにっこりした少年は、先に立って運動場の方へと歩き出した。


  *


「あー・・・疲れた。ちょっと休憩・・・」

一時間後、へとへとになった誠はそう言って草原に座り込んだ。楽しさのあまり時間が経つのも
すっかり忘れていたが、久しぶりの運動とあって流石に体がついて来なかったのだ。

「そうだ・・・何か飲み物を買って来ようかな。」
「飲み物?」
「うん。欲しいものある?」

誠の言葉に、少年は首を傾げた。

「何か飲みたいんなら・・・川に行けば水があるじゃない。」
「川・・・って、どこに?」
「こっちだよ。」

戸惑う誠の手を引いて、少年は歩き始めた。
ここまでは、全てが誠の記憶と一致していた。建物の配置から、運動場に至るまで・・・だが、この大学
構内はおろか近くにも川はなかったはずだ。一体、彼は自分をどこに連れて行くつもりなのだろう。

「ほら、ここだよ。」

野球場の奥・・・本来ならそこにブロック塀があり、外と大学との境界になっているはずの場所に、
確かに少年が言う通り「川」があった。
綺麗な水と、コンクリート舗装されていない土手。東京の真ん中には絶対に存在しないはずのもの。

(・・・!)

この川には見覚えがあった。目を上げると、対岸には見渡す限りの青田・・・そして、遠景には見覚えの
ある山。

「ごめんね。見せてあげられるのは、ここまで。」

(まさか、ここは・・・!)

誠がそう思った瞬間・・・水面をざあっと風が吹き抜ける。
そして、それに乗って懐かしい声が聞こえた気がした。

『もう・・・大丈夫みたいだね。』
『元気出せよ。それが取り柄だったろ?』
『頑張ってよね。みんな・・・』

「君は・・・!」

振り向き、手を差し伸べた誠の前で、少年はにっこりと微笑むと・・・次の瞬間その場から消え失せた。

『待ってるからね。』


  *


「おい、村瀬。・・・何やってるんだよそんなとこで。」
「・・・え?」

背後からかけられた声に、誠はハッと我に返った。
目の前には、見慣れた壁があるだけ。・・・どうやら、教室を出たところでしばらくの間一人佇んでいた
らしい。

「おい、大丈夫か? まさか、暑さにやられたとか・・・」
「ああ、大丈夫大丈夫。ちょっと、ね・・・」
「ならいいがな。お前、北の方の出身だったろ・・・心配になるじゃないか。」
「ごめんごめん。」

心配そうな顔の友人に向かって、誠は笑顔になった。そして、並んで階段の方へと歩き出す。

(夢だったのかな・・・)

そう思ってから、誠は笑顔のまま小さく首を振った。
僕は、あの子を知っている・・・そして、あの場所も。そう、あれはきっと―――――

「何ニヤついてるんだよ、気味悪いな。」
「そうかな? 笑顔って大事だと思うけど。」
「お前・・・何か変なもんでも食ったのか?」
「違うって。それより、あと一月もすれば休みになるだろ・・・今度、うちの実家に遊びに来ないか?」
「え・・・いいのか!?」
「もちろんさ。・・・どうせ暇なんだろ?」
「悪かったな! それは、お互い様だけどな!」
「ははは、そうだね・・・」

ありがとう・・・今度は、僕が会いに行く番だね。


あとがき

この話は、6月の終わりに慶応大学の日吉キャンパスへ、横浜市の職員採用試験を受けに行った
時の経験を元に書いたものです。部屋が暑かったとか、空気が悪かったとか、騒音がひどかったとか
まあ色々と思うところがありまして(笑)。やはり、こうした「日常の中の非日常」というのが僕のツボの
ようです。
なお、題名の「ノスタルジー」とは「郷愁」・・・つまり「故郷を懐かしく思う心」という意味ですが、最近
実家から録音して持って来た五輪真弓さんのベストアルバムの中に同名の歌があります。それを
聴きながら書いたので名前をそのまま付けてみました。