セピア


「よし、いいだろう。これで術は卒業だ。」
「・・・ふう。」

暗竜術士の家、その術の練習部屋。現在、コーセルテルで唯一の暗竜術士候補であるカレルは、
暗竜トトの言葉に溜息をついた。
これで、一通りの術はマスターできたことになる。疲れを色濃く顔に滲ませながらも、笑顔になった
カレルはトトに頭を下げた。

「トト・・・今まで、ありがとう。」
「甘えるな。」

よく頑張ったな・・・という労いの言葉をかけられると思っていたカレルは、トトの予想外の反応に目を
ぱちくりさせた。

「おまえは、これでやっと暗竜術士の資格を得たというだけだ。」
「トト?」
「まだ、おまえには足りないものがある。・・・それを、よく考えてみるんだな。」
「あ・・・」

突き放すようにそう言うと、踵を返したトトは術の練習部屋から出ていった。その後姿を、カレルは
呆然と見送ったのだった。


  *


(あれ・・・)

とぼとぼと食堂に入ってきたカレルは、その変わり様に目を丸くした。
いつもは殺風景な食卓には花が飾られ、その脇にはすっかりセピア色になった写真が置かれている。
簡素を旨とするこの暗竜術士の家において、それは驚くべきことだった。

(・・・トトも、花を飾ったりするんだなぁ・・・)

ぼんやりと食卓を眺めていたカレルは、ここで人の気配に振り向き・・・そして絶句した。食堂に顔を
出したトトが、これまた普段は間違っても着けることのないかわいらしい花柄のエプロンをしていた
からだ。
大分くたびれたそのエプロンは、長身で常に仏頂面なトトのイメージとはかけ離れたものだった。口を
ぽかんと開けたカレルは、先程からの気まずさも忘れ・・・思わずそのエプロンを指差した。

「トト、それ・・・」
「なんだ。」
「トトも、そんなエプロンすることがあるんだね。」
「おまえも、そう言うのか・・・」

苦笑いをしたトトは、手にしていた食器を食卓に置くと、そのまま写真に目をやった。

「今日は、年に一度の大事な日だからな。・・・これを出すのも、今日だけなんだ。」
「ふーん。・・・そうなんだ。」
「ああ。」

やがて、食事が始まった。今日のメニューは、トトの得意料理であるシチューである。
いつもの席に着いたカレルは、スプーンを口に運びながら自分の正面に置かれる格好になった写真を
眺めた。

(・・・・・・)

写真には、三人の人物が写っていた。
小さな女の子を中央に、大きな翼を持った黒髪の青年と、長いウェーブの髪をリボンで束ねた女性。
その誰もが、輝くような笑顔を浮かべている。

「これ・・・この右に写ってるの、トトだよね。」
「そうだ。」
「真ん中の人は人間だから・・・じゃあ、トトの術士かな? 反対側に写っているのは・・・」
「おれの妹だ。今は、月にいる。里で族長をやっているんだ。」
「族長・・・。でも、トトは・・・」

何気なく言いかけたカレルは、ここでハッと口を噤んだ。しかし、ちらりと写真に目をやったトトは、
静かに頷いただけだった。

「そうだ。・・・暗竜にはもう、里はないからな。」

トトの言葉を最後に、二人は黙り込んだ。静かな食堂に、食器の触れ合う小さな音だけが響く。
やがて、意を決した様子のカレルが顔を上げると、再びトトに話しかけた。

「ねえ、トト。・・・さっきの話なんだけど。」
「・・・なんだ。」
「僕に、足りないものがあるって言ったよね。色々考えてみたんだけど、それが何なのかわからなくて
・・・。」
「・・・・・・。」
「僕が修行を始めて、もうすぐ二年。教えられた術は全部使えるようになったし、できる限りの勉強も
したと思う。・・・他にしなければならないことがあるんなら、教えてくれないかな。」
「・・・いいだろう。おれも、一つはっきりさせておきたいことがある。」

手にしていたスプーンを置いたトトは、カレルの目をじっと覗き込んだ。

「カレル。おまえは、本当に竜術士になりたいのか?」
「え・・・?」
「今、おまえ自身が言ったように・・・おまえは、もう暗竜術士として充分な鍛錬を積んだと言えるだろう。
それについては、おれも否定はしない。」
「じゃあ・・・」
「だがな、カレル。おまえはなぜ卵を孵そうとしない? 命名の方法も、力の調整の仕方も教えた
はずだ。」
「それは、その・・・。」
「竜を預かるから、竜術士という。・・・まだ一つの卵も孵せていないおまえを、竜術士として認める
わけにはいかない。」

ここまで言ったトトは、小さく溜息をついた。

「なあ、カレル。父が死んだとき、おまえは言われたはずだ。竜術士にならない者は、このコーセルテル
に留まることはできない。・・・つまりそれは、竜術士になると言わなければ、ここから出ていかなければ
ならないということだ。」
「・・・・・・。」
「しかし、竜を・・・そして、この地を夢見ていたのはおまえの父だったはずだ。・・・おまえ自身は、
本当はどう思っているんだ?」
「どうって・・・」
「父の傍を離れたくない、というおまえの気持ちも分かる。・・・だがな、中途半端な気持ちで術士に
なられると、こちらも迷惑なんだ。」

カレルから視線を外し、食卓の上に置かれた写真を見つめるトト。

「さっきおまえが言いかけたように、もうこの星に暗竜の里はない。族長が、一族を連れて空の
彼方へと旅立ったからだ。・・・そして、卵だったおれたちがこの星に残された。」
「うん・・・。」
「だから、今は・・・このコーセルテルが、暗竜の里のようなものだ。そしておれには、残された他の
卵を守り育てる義務がある。・・・いい加減な気持ちで術士になったようなやつに、その大事な卵を
託せると思うか?」
「そんな! いい加減な気持ちだなんて・・・!」
「では、なぜなんだ。」
「・・・・・・。」

容赦のないトトの言葉に、カレルは唇を噛むと項垂れた。そんな相手の様子を厳しい眼つきで眺めて
いたトトは、ここでふっと表情を和らげた。

「厳しいことを言ってしまって、すまないと思っている。だが、おれはな。・・・怖いんだ。」
「怖い?」
「ああ。・・・竜術士にならなければ、コーセルテルに留まることはできないと・・・さっき言ったな。だが
逆に、もしおまえが竜術士になれば・・・おまえは否応なくこの地に縛られることになるんだ。」
「・・・・・・。」
「竜術士は、一生を竜に捧げる。途中でそれを辞めることも許されないだろう。・・・なり手の少ない
暗竜術士なら、尚更だろうな。」

ここで言葉を切ったトトは、少し遠い目をした。

「おれたちを孵し、育ててくれた術士は・・・まだその時、僅か八歳だった。」
「は・・・八歳!?」
「ああ。考えてもみろ。帰る場所も分からず・・・いや、自分の名前以外何一つ覚えていない、たった
八歳の・・・それも女の子だ。一人で外の世界に放り出されて、生きていけたと思うか? ・・・選択の
余地は、初めからなかったんだ。」
「・・・・・・。」
「それをいいことに、おれたちは母さんを・・・無理やり術士にしてしまったんじゃないか。結局は両親の
許に帰ることができて、幸せな一生を送ることができたけど・・・」
「トト・・・」
「だから、カレル。おまえも、よく考えてから決めるんだ。おまえには、外の世界に戻るという道だって
ある。・・・卵を孵していない今なら、まだ間に合う。」

これは、賭けだった。
容赦ない現実を突き付けることで、カレルが暗竜術士になることを拒んだら。セト以来、百年以上の
時を経てようやく現れた暗竜術士の候補を、コーセルテルは・・・そして、この地に残された暗竜の
卵たちは失うことになる。
次の暗竜術士候補は、それこそいつ現れるか分からない。もしかしたら、自分の存命中には間に
合わないかも知れないのだ。しかしそれでも、その意に反してカレルを無理矢理この地に縛り付ける
わけには行かなかった。・・・最悪の事態に内心恐れ戦きながらも、トトはカレルが話し始めるのを
辛抱強く待った。

「・・・父さんは、竜が好きだった。みんなに馬鹿にされながらも、竜のことを・・・そして、この
コーセルテルのことを信じて、ずっと探し続けていたんだ。」
「・・・・・・。」
「トトに言われて、考えてみたよ。・・・やっぱり、追い出されるのが怖いと思っていた部分は確かにある。
父さんから離れたくないというのもあって、迷っていたのも本当なんだ。」

俯いていたカレルは、ここで顔を上げた。微かに体を震わせるトト。

「でも・・・僕だって。父さんに負けないくらい、竜が好きなんだ。」
「カレル・・・」
「父さんと、小さい頃からずっと一緒に暮らしてきたんだもん。・・・父さんはもういないけど、その想いは
僕が継がなくちゃね。」

トトをじっと見つめるカレル。その瞳には、今や決然とした意思の輝きがあった。

「約束するよ。僕は・・・僕の意思で、このコーセルテルで竜術士として生きることを決める。」
「・・・いいんだな? もう一生、ここから離れられなくなっても・・・。」
「うん。・・・これで、吹っ切れた気がするんだ。」
「・・・そうか。」

(ありがとう・・・)

頷いたトトは、目を閉じるとホッとした表情を浮かべた。
立ち上がったカレルが、食卓に飾られている写真を指差す。

「この写真・・・借りていいかな。」
「? 構わないが・・・」
「この人・・・さっきトトが『母さん』って呼んだ人。僕の先代の暗竜術士に当たるんでしょう?」
「まあ・・・そうなるか。」
「だからさ。」

写真を手に、食堂の入り口で振り返ったカレルは、少し照れ臭そうに微笑んだ。

「卵を孵すときは、見守っていて欲しいんだ。」


はしがき

『ROUND TRIP』サイドストーリー第5弾、暗竜術士カレルが術士になる経緯についての話です。
カレルの父は考古学者でした。竜の存在を信じ、それを主張するあまり妻には逃げられ、学会でも
ペテン師扱いされましたが諦め切れず、ついにコーセルテルへと辿り着いてしまった・・・という過去の
持ち主です。カレルはそんな父に連れられて14歳のときにコーセルテルを訪れることになりました。

BGM:『小さな写真』(久石譲)