バスタイム


死竜の月に入ると、リグレスでは朝晩の気温が氷点下になることも珍しくない。長い長い、本格的な
冬の始まりである。

「♪♪♪〜」

粉雪が舞いそうな寒さの中、ミズキは鼻歌を歌いながら桶を運んでいた。その中には、なみなみと湯が
湛えられている。・・・そう、ミズキはこの日、この冬初めての“風呂”の用意をしているところだったので
ある。

(これで・・・最後ね)

夫の両親が譲ってくれた家には、小さいながらしっかりした浴室があった。 毎週土曜日の夜・・・仕事が
引けた後、のんびりと風呂に浸かる。エクセールの長く厳しい冬にあって、これがミズキの楽しみの
一つなのだった。
もちろん、風呂というのは一般庶民にとってはかなりの贅沢品だった。予め屋外の大きな釜で湯を
沸かし、それを浴槽に張って初めて“風呂”に入ることができる。その手間と費用を考えると、余程の
上流階級でない限り毎日というわけにはいかないのだ。

「よい・・・しょっと。」

勝手口から家の中に入り、そのまま浴室へと向かう。運んできた桶を浴槽に向かって空け、ミズキは
満足そうに頷いた。
女手一つで風呂の用意をするのはなかなか骨が折れる作業だったが、まさか冬の精霊である
センジュに火の番をさせる訳にもいかない。自分の“楽しみ”のためなのだ、これくらいは我慢
しなければ。

(!)

湯加減を見ようと、張られた湯に指を入れたミズキは、顔を顰めると即座にそれを引っ込めた。

(ちょっと・・・熱すぎたかしら)

そもそも、ミズキの家の風呂は単に浴槽に湯を張っただけのものだ。途中で湯がぬるくなってしまった
場合は注し湯をするしかないのだが、一人で風呂に入る場合それは現実的ではない。というわけで、
いつもはかなり熱めの湯を浴槽に入れるのが常だったのだが、この日はどうも湯を沸かし過ぎて
しまったらしい。

(どうしようかな。冷めるまで待つのも芸がないけど、また水を汲んでくるのも面倒ね・・・)

眉を寄せるミズキ。そこへ、メモ書きを片手にセンジュがやってきた。

「おーいミズキ。さっきの砂糖の話だけど・・・」
「あ、センジュ! ちょうどよかった。」
「あん?」
「あなたに、一つ頼みが―――――」

顔を上げたセンジュは、ミズキの背後・・・湯気を上げている浴槽を目にして青くなった。両手を前に
出し、そのままじりじりと後ずさる。

「お・・・おいミズキ! そりゃなんだ!?」
「え? それ・・・って?」
「分かったぞ! それはほら・・・あれだ!! 新手の拷問だな!? まさか、オ・・・オレをそれに
入れようってんじゃ・・・」

「・・・ああ。」

センジュの慌てぶりに目をぱちくりさせていたミズキは、くすりと笑うと首を振った。
こうして共に暮らしていると忘れがちになるが、センジュはそもそも寒さを司る冬の精霊なのである。
高位であるために多少の暑さはものともしないが、流石に風呂に入ったらただでは済まないだろう。

「もう、違うわよ。これは私が入るの。」
「お・・・お前が?」
「そうよ。これは“お風呂”って言ってね、私たち人間は体を洗うとき、こうやってお湯を用意するのが
普通なの。」
「はあ・・・。そりゃ、まあ・・・オレたちだって、水浴びくらいはするけどさ。それと似たようなもんか?」
「そうね。ここの冬は、私たちには厳しいから・・・毎日ってわけにはいかないけど、こうしてたまには
体の芯まで温まらないとね。」
「体の芯まで・・・なあ。」

ぞっとしない表情で呟いたセンジュは、気を取り直したようにミズキに問いかけた。

「・・・で、オレに頼みってのは?」
「あ、うん。実は、お湯をちょっと熱くしすぎちゃって、このままじゃ入れなくて困ってたのよ。あなたの
力で、少しこれを冷ましてもらえないかな・・・と思って。」
「あー・・・なんだ、そんなことか。別に、構わねえけど。」
「そう? じゃ、お願いね。私は、お風呂に入る支度をしてくるから。」

うきうきしながら洗面所へと戻ったミズキは、戸棚からタオルや石鹸といった入浴のための道具一式を
取り出した。洗面器を抱えて浴室へと戻ると、笑顔でセンジュに声をかける。

「どう?」
「おう。ちゃんと冷ましといてやったぜ。」

得意そうに胸を張ったセンジュの後ろ、先程まで湯気を上げていたはずの浴槽には・・・あろうことか、
氷が浮いていた。

「やっぱ、入るんならこれくらいじゃねえとさ。あんなのに入ったら、多分溶けちまうぜ?」
「そんな・・・」

立ち竦んだミズキの手から洗面器が床に落ち、中身が辺りに散らばった。
これでは・・・寒風吹きすさぶ中、大変な思いをして湯を運んだ自分の苦労は何だったのだ。

(やっぱり、面倒がらずに水を汲んでくればよかった・・・!!)

がっくりと項垂れるミズキ。その様子には気付かなかったらしいセンジュが、浴槽を眺めながら言った。

「なあミズキ、この“風呂”ってさ。・・・お前の後、オレが入ってもいいかな。」
「・・・・・・。」
「向こうには、こういうのはなかったし。ちょっと興味があってさ。」

こうして、うっすらと涙を浮かべたミズキは、キッとセンジュを睨み付けると大声で怒鳴ったのだった。

「好きにしたらいいじゃないの!!」
「な・・・何を怒ってんだよ、ミズキ。だから、お前の後でいいって言って―――――」
「もう!! そんなの入れるわけないじゃない!! センジュのバカ!!!」


はしがき

センジュとミズキが故郷に戻って、程なくしての話です。
小説のネタ出しは入浴中にすることが多いんですが、先だってふと「冬軍の面々は“風呂”なんて
知らないだろうな」と湯船に浸かりながら思いまして。人間と冬の精霊のカルチャーギャップを示す、
こんなバカ話ができてしまいました(笑)。
いやまあ、某団長さんなら痩せ我慢して入りそうな気もしますが(邪笑)。