スウィート


その日、地竜のレヴィンはロアノーク市街の大通りで途方に暮れていた。
両手には、大きな紙袋。中には様々な種類のドーナツが山のように入っている。そのどれもが、ここロアノークに本店を構える世界的に有名なドーナツ専門店のものだった。普通に買い求めれば、かなり値が張る代物である。

(ううむ・・・どうしたものか・・・)

問題はレヴィン自身、甘いものが大の苦手だということだった。一つ二つというならまだしも、山盛りのドーナツだなどと・・・想像するだけで吐き気が込み上げてくる。
とにかく、今は宮殿に戻らなければならない。袋の口から漂う甘い香りから顔を背けるようにして、レヴィンは歩き始めた。

(しかし・・・一体何故、こんなことになってしまったのだ・・・?)

レヴィンは“衛士”と呼ばれる、新たに創設された護衛部隊の長だった。
始祖ユーニスを宮廷に迎える直前に起こった、人間による地竜族の里長刺殺事件。それを重大視した族長のイゾルデによって、以後族長や里長といった要人が里を離れる際には、必ず護衛を付けることが厳命されたのである。
こうして、新たな里長の竜都での挨拶回りのために、その護衛となったレヴィンが竜都を訪れたのが、今から一週間前のこと。そしてこの日、レヴィンがこうして本来の役目から離れ、宮殿から外へと出ることになったのは、新たな里長に頼まれた買い物のためだった。
折しも、街は“春の大売り出し”の最中だった。
買い物の際に貰った、数枚の福引き抽選券。地竜らしく真面目なレヴィンは、それを無駄にするなど思いもよらず、律儀に抽選会場へと足を運んだのだった。その結果が、紙袋二つ分のドーナツというわけである。
要らなければ、受け取りを拒否するなり捨てるなりすれば良いのだが、これまた地竜特有の思考回路の持ち主のレヴィンの頭の中には、そういった選択肢は当初から存在していなかったのである。

(さて、と・・・)

本殿に辿り着き、その扉を潜る。
里長と共にレヴィンが宛がわれている居室は、本殿の二階にあった。とりあえず部屋に戻り、里長であるミルトに事態の報告と相談をするのが無難だろう。
しかし、今回この竜都に初めて足を踏み入れたという意味において、自分もミルトも大した差はない。彼にも名案が浮かばないとなれば、最悪の場合・・・良い歳をした男が二人、山盛りのドーナツを食べる羽目にならないとも限らない。レヴィンとしては、そんな“修羅場”は願い下げだった。

(上手く、解決策が見つかれば良いが・・・)

そんなことを考えながら、書庫の前を通りかかったときだ。その出入り口から不意に飛び出してきた人影とぶつかりそうになり、レヴィンは素早く一歩身を引いた。

「おっと、これは失礼。」

床に倒れ込んだ相手に、不自由ながら片手を差し伸べる。この書庫の管理をしている地竜で・・・そうだ、確かヴィスタという名だったはずだ。
しかし、このときの相手の様子は、どこかおかしかった。起き上がったヴィスタが、何かに憑かれたような様子で一歩、二歩とレヴィンに詰め寄ってくる。その頬が赤く染まっているのは、熱でもあるからなのだろうか。

「その・・・その袋の中身は、一体何なのですかッ!」
「ああ、これか? 実は、先程福引で当てたドーナツが入っているのだが・・・そうだ。もし、良ければ―――――」

考えてみれば、このヴィスタという書庫の管理官が甘いもの好きだというなら、このドーナツを譲ってしまう手もある。若い女性の中には、こうした甘い菓子類に目がない者が多く、それは地竜族も決して例外ではない。女性には疎いレヴィンも、そのくらいのことは知っていた。
しかし、次の瞬間ヴィスタがレヴィンに向かって口にしたのは、その予想とは大きく異なる言葉だった。その甲高い声がどことなく引き攣っているように聞こえたのは、気のせいだっただろうか。

「さては、そのドーナツを書庫に持ち込もうというのですね! 書庫は飲食厳禁、そのようなことは以ての外です!!」
「いや、それは知っているが・・・。だから、私はだな―――――」
「では、分かった上でそれを無視しよう、ということですか! ますますもって性質が悪い! ・・・さあ、渡しなさいッ! 私が、書庫の管理官としての権限で、そのドーナツを責任持って処分します!!」

(どうして、そうなるのだ・・・)

相手の只ならぬ剣幕に、レヴィンは思わず呆れた顔になった。
しかし、これはこれで良いのかも知れなかった。本来、このドーナツは自分にとって、不要の品以外の何物でもない。相手がそれを進んで処分してくれるというのなら、それを拒む理由は自分にはない。

「分かった、分かった。・・・では―――――」

こうして、苦笑しながら袋を差し出そうとしたレヴィンはここで初めてヴィスタと正面から目を合わせ・・・次の瞬間、背筋が凍るような思いを味わうことになった。

(こ・・・これは―――――)

自分にひたと据えられた鋭い視線は、鷹のような猛禽類を思わせる。爛々と輝く瞳には、紛うことなき“殺気”が見て取れた。
次の瞬間、レヴィンは思わず袋を引っ込めると言っていた。

「ま・・・待て。それは、言い掛かりというものだ。・・・どうしてもと言うならば、私と立ち合って貰おうか。」

どう考えても、相手の剣幕はただ事ではなかった。それに付き合って、無駄な時間と労力を費やすのは、どう考えても自分の流儀ではない。普段の自分であれば、間違いなく袋を相手に渡してこの場を立ち去っていたはずだった。
しかし、レヴィンは自分の中に芽生えた、“立ち合ってみたい”という欲求に抗えないものを感じていた。
知恵を重んじる地竜族。その中では、武術は野蛮なものとされ、それを極めようとする自分を、周囲は奇妙なものを見るような眼で見ていたものだ。
しかし、それが間違いなく必要であることは、あの事件ではっきりした。
こうして始まった、「衛士」の制度。いざ武術の鍛錬をと思っても、周囲には自分以上に腕の立つ地竜は皆無だった。さりとて、他の種族にはこうした組織はまだなく、武術の鍛錬に関しても、個人の嗜好の域を出ていないというのが実際だった。そうした中で、腕の立つ相手に巡り合えるのは、余程の僥倖に恵まれなければ無理な相談だった。
そうだ。自分は、“好敵手”に飢えていたのだ。

「いざ、参られよ!」

宮殿の中庭に出て、棒を手に対峙する。
すぐさま、ヴィスタが棒を大上段に振りかぶり、力任せの打ち込みを放ってくる。それを右に左に躱しながら、レヴィンは相手のことをじっくりと観察した。
予想とは裏腹に、その型はきちんとしたもので、一応の武術の心得はあるようだった。しかし、その動きには無駄が多く、大きな隙があることは一目瞭然だった。

(期待外れだな。この程度とは―――――)

小さく溜め息をついたレヴィンが、立ち止まるとヴィスタに向き直った。突っ込んでくる相手に向かって、自らの棒を僅かに傾けて構える。
打ち込んできた棒を弾き飛ばし、返す一撃で喉元に棒を突き付ける。これで、難なく勝負はつくだろう。

「ぐええぇッ!!」

次の瞬間、悲鳴を上げたのはレヴィンの方だった。
棒が触れ合う瞬間、ヴィスタは自らの棒をあっさりと手放した。予想外の相手の動きに、がら空きになったレヴィンの胸元。こともあろうに、ヴィスタはそこへそのまま飛び込んできたのだ。

(馬鹿な―――――!!)

「参りましたかッ! さあ、参ったと言いなさいッ!!」

倒れ込んだレヴィンに馬乗りになったヴィスタが、勝ち誇ったように叫んだ。その指は、レヴィンの喉首に深く食い込んでいる。

「・・・ま、参った。私の、負けだ・・・。」

やっとのことで、それだけを口にするレヴィン。
その言葉に、立ち上がったヴィスタが本殿の廊下の方へと突進していく。やっとのことでその場に起き上がったレヴィンの眼に映ったのは、幸せそのものの様子で“戦利品”であるドーナツの袋を抱え上げたヴィスタの姿だった。

(何と、いう―――――)

しばらくの間、レヴィンは痛む喉をさすりながら、苦り切った様子でヴィスタを眺めていた。
それにしても・・・仮にも武術の勝負で、命綱とも言える自らの武器を手放すとは。今回は偶然それが上手く働いたが、余りにも無茶なのではないか。・・・このような破れかぶれな作戦の果てに得た勝利は、果たして本当の意味での勝利と言えるのだろうか。

(いや―――――)

ここまで考えたレヴィンは、小さく首を振った。
実際の戦場では、武器が手元にあるとは限らない。何らかの理由で、武器を失う可能性は常にある。もし、そのような状態で敵と対峙せざるを得なくなったなら・・・自分は果たして、ここまで思い切った行動に出ることができただろうか。最初から勝てないものと決め付け、勝負を放棄してしまうことはなかっただろうか。
そうだ。最後まで諦めず、使えるものは如何なるものも利用して相手に勝利しようというこの姿勢こそが、本当の“武”と呼ばれるに相応しいのだろう。勝負に“型”や“美しさ”を持ち込んでいた自分こそが、浅薄だったのだ。

「ヴィスタ殿。・・・そう呼んでも、構わぬかな。」

我に返った様子のヴィスタが、レヴィンの声に振り向く。その傍らに歩み寄り、レヴィンは深く頭を下げた。

「只今の勝負だが・・・そなたの執念には、ほとほと感服した。武人たるもの、そなたのような気迫を常日頃から持つようにせねばな。」
「あの・・・はあ。」
「申し遅れたが、私はレヴィンという。現在、地竜族における“衛士”の長を務めている者だ。・・・その私に勝ったのだから、そなたの武は地竜族一ということになるな。」

レヴィンの言葉に、ヴィスタが驚いた顔になった。と同時に、その頬にうっすら朱が差した。・・・どうやら、自分が何をしたのかに思い当たったらしい。

「これは・・・そうとは知らず、失礼を致しました。私は、ただ―――――」
「別に、そなたを責めている訳ではないし、今の言葉は皮肉ではない。感服した、と言った筈だが?」
「・・・・・・。」
「衛士の役割は、地竜族の要人の警護にある。今後もしばしば、私は竜都ロアノークを訪れることになるだろう。・・・どうだろうか。その際、また手合わせを願いたいのだが。」
「あの・・・私と、でしょうか?」
「無論、只でとは言わぬ。そなたが望むならば、菓子の一つや二つ、差し入れるに吝かではない。是非に、考えてみてはくれないだろうか。」


はしがき

山下達郎さんの『ドーナツ・ソング』という曲を聴いていて、瞬時に思い浮かんだ話です。「Rendezvous」及び「週末の過ごし方〜ヴィスタの場合〜」でヴィスタの無類の甘い物好きが暴露されたわけですが、これはその流れをくんでいます(笑)。
なお、この二人は後に結婚し、その間に一子コハクが儲けられることになります。

文中で触れられている「里長刺殺事件」については、改めて本伝作品を書くつもりです。

BGM:『ドーナツ・ソング』(山下達郎)