みちしるべ


コーセルテルは、春を迎えていた。
アヤメは一人、コーセルテルの中央湖の岸辺に立つ一本の桜の木の下に佇んでいた。その花は既に
満開になっており、花びらが時折ひらひらと湖面へと落ちては、水面に微かな波紋を形作る。

(・・・・・・)

幹にそっと触れ、その梢を見上げる。こうして桜の木の下に佇んでいると、かの日・・・自分の目の前で
消えた冬軍の青年の笑顔が、まざまざとその脳裏に甦るのだった。そしてそれは、これからもずっと
変わることはないのだろう。

「こんなところにおられたのか・・・。」
「・・・シラカバ殿。」

不意に背後から声をかけられたアヤメは、振り向くと硬い笑みをみせた。そこに立っていたのは、酒の
杯を片手にした冬将軍のシラカバだった。

「宴はいいのか? 主賓が席を外してしまっては、座も盛り上がらないと思うが。」
「それはお互い様ではないか、アヤメ殿。・・・何、宴の方は心配には及ぶまい。まだまだお互い硬さは
取れぬようだが、特に諍いを起こしたりということはないようだ。まあ、昨日まで殺し合いをしていた間柄
なのだからな・・・おいそれと宴を楽しむというわけにも行くまい。」
「ふむ・・・確かに、言われてみればそれはその通りだな。」

アヤメに並ぶようにして、シラカバは湖を眺めた。その視線の遥か先には、コーセルテル一の標高を
誇るクランガ山が聳えている。
この日、春夏秋冬の各季軍の代表者がこのコーセルテルで一堂に会していた。
目的は、各季軍間の戦を無くすための「季軍間不可侵条約」の締結である。“各季軍の存在意義を
尊重し、支配期間を予め決定することで無用な流血を避ける”という趣旨のこの条約は、春軍の
アヤメと冬軍のシラカバの十年間に亘る地道な努力によって、ようやく今年になって調印の運びと
なったのである。式典は滞りなく終わり、今は各軍の懇談を兼ねた酒宴が開かれているはずだった。
しばらくの間黙って辺りの風景に見入っていたシラカバが、やがて感慨深げに口を開いた。

「ここまで来るのに、随分時間がかかってしまったな。」
「ああ。もう、十年になるのか・・・私が初めてシラカバ殿の許を訪れてから。」
「そうだったな。・・・あの時は、驚いたものよ。」

きっかけは十年前。ふとした偶然から、アヤメは冬軍のハシバミという青年を捕虜にすることになった。
春を迎えて消滅したハシバミが遺したのが、冬軍の象徴である刀と一冊の手帳だった。それを
シラカバに返すため、アヤメは単身冬軍の本営に乗り込んだのだった。

「お互い、険しい道であったな。聞けば、春軍の中ではアヤメ殿を暗殺しようとする動きもあったと
言うではないか。ここまで春軍をまとめ上げる苦労は、並大抵のことではなかったのではないかな?」
「それはお互い様ではないか、シラカバ殿。冬軍も、南都と北都との間の溝は最後まで埋まら
なかったと聞くぞ。」

かつて、春一番隊の隊長として数多くの武功を挙げたアヤメは、その後も順調に春軍内での出世を
遂げていた。初陣から既に十年以上が過ぎ去った昨年、アヤメは遂に春軍の事実上の最高責任者で
ある大都督となり、その軍権の全てを掌握するに至ったのだった。
そして、シラカバは元々冬軍北都の支配者である冬将軍だった。この不可侵条約は、二人がこうした
高い地位にあったからこそ実現したものだったと言えるだろう。

「これからも、異論や反対は後を絶たぬということかな。何万年も続いた我らの相克は、そう容易くは
消え去らぬものであろうしな。」
「いかにも。これは、まだ長く続く道のりの中の一里塚に過ぎんのだろう。しかし、曲がりなりにも我らは
こうして、初めの一歩を踏み出すことができた。これからも・・・歩み続けるしかあるまい。」
「うむ・・・違いない。」

頷いたシラカバは、傍らの桜の木を眩しそうに眺めた。

「桜か・・・。こうして、自らの目で見ることになる日が来ようとはな。」
「シラカバ殿は、桜に何か特別な思い入れでもお持ちなのか?」
「いや・・・。だが、春の歌にはよく桜が詠まれると聞いてな。歌詠みをする者の端くれとして、何が
歌人をそれほどに惹き付けるのか・・・気にはなっていたのだ。」
「かつて、シラカバ殿と同じことを言っていた者がいたことを思い出した。・・・どうかな? 実際に目に
した感想は。」
「うむ・・・。妖艶さと清らかさを兼ね備えたこの佇まい・・・また、こうして惜しみなく散る様子は、まさに
数多くの歌に詠まれるに相応しいと言えるのであろうな。」
「ふ・・・そうか。」

微笑みを浮かべたアヤメは、シラカバの隣で桜の木を見上げた。

(お前の・・・言った通りだったな・・・)

消える間際、ハシバミは停戦の交渉相手として冬将軍であるシラカバの名を挙げた。
そして、シラカバはハシバミの言った通りの人物だった。現状を冷静に見据え、感情に溺れることなく
理性的な話し合いができるだけでなく・・・こうして宿敵春軍の軍花である桜の木を素直に褒めることが
できたように、本来は相容れぬ存在であるはずの春の精霊たちのことも尊重することのできる、
冬軍では非常に珍しい存在だったのだ。
アヤメの言葉を最後に、二人はしばらくの間黙り込んだ。湖面を渡る春風が、二人の頬を撫でて通り
過ぎていく。やがて、シラカバは懐に手を入れるとそこから一冊の手帳を取り出した。

「それは・・・。」
「そうだ。以前アヤメ殿が単身、私の許へと届けに来てくれたものだ。」

シラカバは、黙って手帳のページをめくっていった。最後のページには一首の歌が流麗な文字で書き
付けられており、それに添えられるような形で一枚の瑞々しい桜の花びらが挟まれている。
しばらくの間そのページを眺めていたシラカバは、やがて傍らのアヤメを見やった。

「この歌・・・。アヤメ殿が詠まれたものなのだろう?」
「ああ・・・。あやつに勧められてな、初めて挑戦してみたものだ。・・・何やら、他の者に見られたと
思うと、気恥ずかしいものがあるな。」
「いや、なかなかの出来栄えだと思う。アヤメ殿には、こちらの才能もあるのではないかな。」
「いや、そうか。かたじけない。」

アヤメは、照れたように笑った。

「しかし、この手帳だが・・・誠に私が預かっていても良いのか? これは、ハシバミの形見とも言える
もの。もし、アヤメ殿が望まれるならば・・・」
「気遣いはありがたいが、それは無用だ、シラカバ殿。・・・月並みな言い方かも知れんが、あやつは
私の心の中に確かに生き続けているのだ。あやつのくれた夢・・・それは、ここにこうして形になった。
今度は、私がそれを守っていく番なのだろう。」
「アヤメ殿・・・。」
「その手帳は、停戦に納得が行かんという若い跳ね返りにでも与えてやればいいだろう。シラカバ殿が
これぞと思われた、これからの冬軍を背負って立つであろう者にな。」
「・・・ああ。そうすることにしよう。」

アヤメの言葉に、シラカバは微笑むと頷いた。手帳を懐にしまうと、改めてアヤメに向き直る。

「アヤメ殿。実は、私から一つ提案があるのだ。聞いてはくれぬかな?」
「何だろうか?」
「冬軍と春軍・・・両軍合同の歌会を催せないものだろうか。無論、すぐにとは行くまいが・・・両者の都で
交互に執り行うということにすれば、互いの交流に役立つと思うのだが。」
「・・・そうだな。それは名案かも知れないな。」

考える表情をしていたアヤメは、ややあって頷いた。

「承知した。都に帰ったら、陛下にも申し上げてみることにしよう。」
「おお、そうして頂けるとありがたい。どうか、よろしく頼む。」
「いずれ、武器を執って殺し合うのではなく・・・こうしたもので競い合うような間柄になりたいものだな。
なあ、シラカバ殿?」
「うむ。全くだ。」

不意に辺りを一陣の風が吹き抜け、桜の花びらが吹雪のように空へと舞い上がった。次々に湖面へと
落ちて行くそれを眺めながら、アヤメは誰にともなく微笑んだのだった。

(それが・・・お前の願いだったのだろう? ハシバミ・・・)


はしがき

「季軍間不可侵条約」締結の日の一コマです。夏軍と秋軍についても、いずれどこかで触れないと
いけませんね(笑)。