アズサは一人、見渡す限りの雪原に立ち尽くしていた。その肩には、彼女の伝令鳥である、
ユキガラスのラナイの姿がある。
辺りにうっすらと積もった粉雪には、足跡一つ見られない。それは、この地に生きる者の姿が絶えて、
既に久しいことを物語っていた。
生を拒む、峻厳なまでの美しさ。穢れない雪には、それがある。そして、自分たち冬の精霊の本来の
役割は・・・こうして世界に“死”をもたらすことなのだ。
五年前のこの日。かつての“常春の都”・・・コーバリスの首都、ニカイアを中心とした三十セクタ
以上が、一晩にして分厚い氷に閉ざされることになった。その後、その北端に永久陣地を構えた
冬の精霊たちによって、この地は永遠の冬を約束されることとなった。

(・・・・・・)

一人、足元を見つめる。
この分厚い氷の下には、ニカイアの町並みがそのまま残されている。
かつて、毎年失意のうちに眺めた、人間たちの営み。数十年に亘って続いたそれは、五年前・・・
唐突に終わりを迎えたのだった。
時々、こんなことを考える。
もし、自分が寒気団の団長に選ばれなかったなら。あるいは、自分に当初から人並みの術力が
備わっていたなら。
この地に住む人間たちは、何事もなかったようにその一生を享受することができたのだろうか。
結果的に、今・・・自分は、冬軍でも指折りの武力・術力を備えた武将の一人として、多くの冬の精霊
たちから尊敬され、あるいは畏怖されている。
しかし、それが何だというのだ。
多くの人間たちの犠牲の上に、手に入れた力。それを揮う資格が、果たして自分にはあるのか。

(ラナイ・・・)

あの日の面影は、今でも色褪せないままだ。そして、自分は・・・毎年こうして、彼を偲ぶためにここを
訪れる。
未練ではないか。あまりに女々しいと、笑いたくもなってくる。
不意に、それまでじっと肩に留まっていたラナイが首を動かした。

「・・・分かっている。」

目を閉じたままで、アズサは頷いた。
極北の地では、冬になると太陽の沈む時刻が極端に早くなる。正午を回ったばかりだというのに、
既に陽の光はその色を変えつつあった。
程なく、この地も夕暮れ・・・そして長い長い夜を迎えることになる。・・・急がねばならなかった。
ふわり・・・と、アズサの体が宙へと舞い上がる。程なくして、その姿は遥か南へと消えていった。


  *


ニカイアの中心地・・・海に面した一角には、かつて王城が建てられていた。
北都の中心に聳える城とは、比べ物にもならない大きさだ。それでも、この地に住む人間たちに
とってはかけがえのない心の拠り所であり・・・あの戦の際には、皆がそれを守るために、無駄と
知りつつも命を投げ出したのだ。
その城は今、そのほとんどが氷の下に埋もれた恰好になっている。ただ一つ、雪原から斜めに顔を
覗かせている尖塔の前へと降り立ったアズサは、ゆっくりとそちらへ歩み寄っていった。
尖塔の頂には、すっかり色褪せたボロ布が結び付けられていた。かつては鮮やかな浅葱色だった
ものだが、月日が経ち、極寒の気候に晒されるうちにすっかり色が抜けてしまったのだ。
尖塔の前に跪いたアズサは、長い間身動ぎもしなかった。・・・やがて、その唇から小さな呟きが
漏れた。

「何故、なのだろうな。」

すっかり茜色に染まった雪原には、尖塔の作る影が長く伸びている。そして、それに寄り添うようにして
伸びる人の影が・・・二つ。

「我らは四季の一つ・・・死の季節、冬を司る精霊だ。・・・精霊と人間は、本来はその一生を通じて
交わることのない存在のはずだ。」

ここで、アズサはゆっくりと立ち上がった。いつの間にか自分の後ろに立っていたミズメに向かって、
静かに問いかける。

「・・・ならば何故。これほどまでに、人間に惹かれ・・・心を掻き乱されるのだ。・・・私は、精霊として・・・
どこかおかしいのだろうか。」
「・・・昔、このような話を聞いたことがあります。」

しばらくして、ミズメが口を開いた。考える表情で、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「我々精霊は、その昔・・・人間によって生み出されたのだと。」
「ほう。・・・では、我々は人間によって作られたというのか?」
「いえ、そういう意味ではありません。」

微笑を浮かべたミズメが、小さく首を振った。

「まだ、人間たちが“文明”と呼べるものを持たなかった、遥かな昔。風雨や雷、そして火山の噴火から
洪水に至るまで・・・自然の大いなる力は、人間たちにとって畏怖の対象でした。こうした純粋な畏怖の
心が、この星に満ちていた“力”―――――命を生み出す力、とでも申しましょうか―――――に
作用し、私たち精霊を作り出したというのです。」
「・・・なるほど。悠久の昔から、我ら精霊と人間は、切っても切れぬ存在だったということか・・・。」
「真相の程は分かりません。ですが、これも一つの可能性として、挙げられるとは思われませんか。」
「・・・・・・。そうだな・・・。」

再び目を閉じたアズサが、ゆっくりと頷いた。その後姿を見ながら、ミズメが言う。

「人間の寿命は、我ら精霊から見ればほんの僅かでしかありません。その肉体は脆弱であり、戦に
病に天変地異と・・・常にその生は死と隣り合わせです。しかし、だからこそ・・・その限られた生を、
懸命に生き抜こうとするのではないでしょうか。」
「限られた生、だからこそか・・・。」
「生への執着、家族や友人への深い愛情。これらは、我ら精霊にはないものです。・・・だからこそ、
団長はそこに“命の輝き”を見られ、そこに惹かれているのではないでしょうか。」
「・・・・・・。」

ここで初めて振り向いたアズサに、ミズメは手にしていた小さな鉢植えを差し出した。

「これを。」
「これは・・・生花ではないか。どこで手に入れたのだ?」
「カリンから預かりました。団長が今日、ここにいらっしゃると聞いて・・・町で手に入れてきたのだ
そうです。」
「あやつめ・・・。」

ふっと笑みを浮かべたアズサが、鉢植えを受け取った。
鉢の中にあったのは、マツユキソウと呼ばれる純白の花。真冬に雪の中で可憐な花を咲かせる、
冬軍の面々にも馴染みの深いものだ。

(・・・・・・)

尖塔に歩み寄ったアズサは、僅かに逡巡した後・・・設えられていた窓枠に鉢をそっと置いた。・・・と、
見る間にマツユキソウの花びらは凍り付き、ガラスのような音を立てて粉々に砕け散った。
ニカイア一帯は、アズサにかけられた術によって厳重に守られている。その気温は零下百度にも達し、
他者の侵入を厳しく拒んでいるのだ。

「やはり・・・我らと“命”は、相容れぬものか。」
「は? 今、何と・・・?」
「いや。何でもない。」

残念そうなアズサの呟きに、ミズメが怪訝そうな顔をした。振り向いたアズサの瞳には、いつもの
力強さが戻っていた。

「さあ、戻るぞ。すっかり、日も暮れてしまった。」
「は。・・・本日は、差し出がましいことを申しました。」
「よい。・・・今日、お前が言ってくれたことは忘れまい。」

最後に、城の残骸・・・その突端を一瞥したアズサは、ミズメを従え北へと飛び去った。その後姿に、
粉雪がちらつき始め・・・たちまちのうちに、辺りは猛烈な吹雪によって包まれていった。
こうして、この地は再び一年の眠りにつくのだった。・・・誰にも、それを邪魔をされることなく。


はしがき

ひだりさんの書かれた『玉梓』に、アズサとラナイ(ユキガラス)のイラストがありました。それを拝見
して、ふと「ラナイを肩に留まらせてそれに語りかけるアズサ」という情景が思い浮かびました。
そこからできたのがこの話です。・・・結局、書いてるうちに語りかける相手はミズメになっちゃいました
けど(爆)。
基本的にいつも前向きで力強い言動のアズサですが、その根底にはラナイとの別れ・・・そして、多くの
人間を死に追いやってしまったという罪の意識があるはずです。今回はそこにスポットを当て、他では
見られないしおらしいアズサが描けて、個人的には満足です(笑)。

BGM:『祈り』(シークレット・ガーデン)