−プロローグ−

女の子は、薄暗い路地に蹲っていた。薄汚れた建物の壁にもたれ、建物の間から僅かに覗く夜空・・・
そこに浮かぶ月を眺めている。
奴隷として売られた家から逃げ出してから、もう三日も僅かな水以外何も口にしていない。生きる
ための気力も尽きかけていた。

(どうして・・・)

ふと、女の子の上に影が差した。路地に蹲った女の子を見下ろしていたのは、全身を覆うローブに
フードを深く被った長身の相手だった。フードから覗く瞳は猫のような凶眼で、明らかに人間のものとは
異なっていた。
しばらく黙って女の子を眺めていた相手が、やがて静かに問いかけた。

「・・・汝の、名は?」

女の子は、弱々しく首を振った。
物心付いたときから、自分は一人だった。果たして、自分に名前を付けてくれた相手がいたかどうかも
疑わしい。人攫いの連中、そして自分を買った相手、町のならず者たち。周囲は自分のことを好きな
ように呼んだ。

「私と共に来るか?」

また、相手が言った。

「これは契約だ。・・・汝の人生と引き換えに、汝には新たな名と、安心して暮らせる場所を提供しよう。」

相手の言っていることは、難しくてよく分からない。ただ今は、何か食べるものと、ゆっくりと眠ることの
できる場所が欲しかった。
たとえ相手が人攫いの類でも、売られるまでは大事にしてもらえるはずだ。
最後の力を振り絞り、よろよろと立ち上がった女の子は、差し伸べられていた相手の手に縋り付いた。

「・・・いいだろう。」

女の子を抱き上げながら、相手は小さく頷いた。その周りを、瞬く間に風が包み込む。
次の瞬間、路地から二人の姿は跡形もなく消えていた。