勿忘草 1   

勿忘草


 −1−

キューマは、黙って玄関前の庇を見つめていた。
パンヤ祭参加者のために用意された、宿舎のホテル。その玄関脇の柱に寄りかかり、じっと雨音に耳を傾ける。

(・・・・・・)

どんよりと曇った空から、かなりの大きさの雨粒が次から次へと落ちてくる。朝方よりは衰えたというものの、まだかなりの勢いである。
雨は、昔からキューマにとってごく身近なものだった。常夏のリベラ地方では、夕方になると毎日のようにスコールがやってくる。かの地に満ちる命・・・その源とも言える雨を歓迎しない者はなく、それはキューマももちろん例外ではなかった。
しかし、何故だろうか。こうして故郷を遠く離れ、降りしきる雨を一人眺めていると、何となく憂鬱な気分になってくる。それは、この雨が故郷のそれとは違う、上品で冷たい印象を与えるものだからだろうか。それとも、あの日・・・キューマが初めてエリカと出会った日も、こんな雨の日だったからだろうか。

(・・・・・・)

ここで溜息を一つついたキューマは、その視線を雨に煙る周囲の建物から、再びホテルの庇・・・そこから流れ落ちる雨垂れへと向けた。ホテルの玄関の方から、キューマを呼ぶ明るい声がしたのは、このときだった。

「ごめーん、キューマ。待たせちゃったかな。」
「いや。それほどでもない。」

振り向いたキューマの前に小走りに駆け寄ってきたのは、自身がキャディを務める相手であるエリカだった。今日はいつもの身軽でスポーティな恰好ではなく、落ち着いた印象のワンピース姿である。一方のキューマも、露出の多い普段の装いではなく、上下の白いスーツ姿だった。強引にエリカに押し切られ、ホテルの貸衣装を着せられたのである。
幾分憮然とした様子のキューマ。そんなキューマの姿を上から下までじっくりと眺めていたエリカが、やおら手をぽんと打った。満面の笑顔で、目を細めると腰に手を当てる。

「うふふ、やっぱり似合ってる。私の見立てに狂いはなかったってことね。」
「そうか・・・? はっきり言って、オレはこういう服は苦手なんだが。」
「いい歳したイケメンが、いくら伝統の民族衣装だからって、いつまで経っても上半身裸にスカートって訳にはいかないでしょ。たまにはこういう“おめかし”にも挑戦しなくちゃ。」

したり顔でここまで言ったエリカが、にこにこしながらキューマに一本の傘を差し出した。桃色の、花柄模様がデザインされたエリカお気に入りのものである。

「はい、キューマ。じゃあ、ここからのエスコートはよろしくね。」
「ああ・・・それは構わないが。傘は、一本なのか?」
「もちろんよ。デートって言えば、相合傘に決まってるでしょう!」
「・・・・・・。」

苦笑したキューマが、それでも素直に傘を開いた。早速腕を絡めてきたエリカに極力雨粒がかからないように気を配りながら、かなりの雨脚の中を歩き出す。
三日前から開かれていた、ウエストウィズでのパンヤ祭の大会は、今朝方からの土砂降りの雨によって急遽中止となった。予期せず恵まれる格好になった”休日”にうんざりしていたキューマに、エリカが提案したのがこの「雨中のデート」だったのである。

(さて、と・・・)

二人の・・・というよりも、主にエリカの目的地は、徒歩でここから十五分ほどのところにあるケーキ店だった。付近の魔法学校に通う、特に女学生たちに人気の店で、地元では「穴場」に近い存在なのだという。前日までの競技で同組だった地元の学生と意気投合した縁で、エリカがこの店のことを聞き付けてきたのだった。
歩きながら、キューマは周囲の景色に目をやった。パンヤ島を支える“魔法”を司る魔法使いたち・・・それを長年に亘って育み続けたマガ地方の伝統はパンヤ島内で最も古く、辺りには歴史を感じさせる、落ち着いた風景が広がっていた。
しかし、この雨だ。普段ならば学生たちを中心にその人通りは決して少なくはないが、この悪天候と昼食にはまだ間があるという中途半端な時間も相まって、通りに人影はほとんどなかった。
その中で着飾って出かける自分たちが余程の“物好き”に思え、キューマは思わず苦笑いをした。一方のエリカは、そんなキューマの気持ちには露ほども気付かない様子で、あちらこちらの建物を指差してははしゃいで見せている。

「うふふー。考えてみれば、キューマと二人っきりでこうやって出かけるのって、もしかして初めてなんじゃないかな?」
「そうか? パンヤの練習でも、大会でもいつも一緒にいる気がするんだが。」
「もう、キューマったらムードぶち壊しなんだからっ! 私は、“デート”って意味で言ったの。もうちょっと考えてよ。」
「・・・・・・。」

他愛ないやり取りの間に、二人は目指すケーキ店、『クローバー・ガーデン』に辿り着いた。玄関先で傘についた滴を払っていたキューマに向かって、笑顔の店員が頭を下げる。

「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか。」
「・・・・・・。」
「かしこまりました。ご案内いたしますので、少々お待ち下さいませ。」
「あ、窓側の席、空いてたらお願いしますっ!」
「かしこまりました。こちらへどうぞ。」

無表情で黙って頷くキューマに、どこか上ずった様子のエリカ。そのちぐはぐぶりを目の当たりにして、店員は笑いを含んだ声で応え、二人を先導していく。
客の入りは、この悪天候にも拘わらず半分くらいといったところだった。そのほとんどが種々の魔法学校の制服を身に付けた女学生たちであり、いかにも場違いな二人にその視線が集中する。ひそひそと交わされる囁き、そして小さな笑い声に、キューマはたちまち居たたまれない気分になった。もちろん、期待に目を輝かせているエリカは、そんな周囲の様子には全く気付かないままだ。
やがて、希望通り窓際の特等席に収まったエリカが、満面の笑みで置かれていたメニューを手に取った。パラパラとめくりながら、楽しそうに呟く。

「さーってと、どれにしようかなぁ・・・。あ、これおいしそう! ・・・うーん、こっちもいいなぁ。」
「・・・・・・。」
「へえ、ティーセットもあるんだ。結構お得なんだなぁ・・・どうしよう。やっぱり、一緒にお茶も飲みたいよねえ。・・・ねえキューマ、キューマはどうするの?」
「オレか? オレは、別に要らん。甘いものは、元々好きじゃないしな。」
「えーっ!?」

小さく肩を竦めるキューマ。次の瞬間、座っていた椅子を蹴倒さんばかりの勢いでエリカが立ち上がる。

「な・・・どうしたんだよ。」
「どうした、じゃないでしょ! ケーキ屋さんに来て、ケーキを食べないなんてあり得ないよ! それがどれだけお店の人にとって失礼か、キューマ考えたことあるの!?」
「失礼って・・・。それは、別に来たくもなかったオレを、強引にここに連れてきた誰かさんに言うべきセリフじゃないのか。」
「う・・・うぐっ! い、異議は一切認めませーん! さあ、選んで! 今すぐっ!」
「・・・・・・。」

エリカは、いつもこうだ。鬼の形相になったエリカにメニューを押し付けられ、キューマは苦笑いをした。

「じゃあ・・・オレはこれで。」
「覚悟はいいわね。残したら承知しないんだから! おーい、店員さーん!」

顔を赤くしたエリカが、大声でフロアの店員を呼ぶ。既に、辺りは笑いの渦だった。その様子を視界の隅で捉えながら、呆れ返った様子のキューマは心の中でぼやいた。

(女心ってのは、分からん・・・)

やがて運ばれてきたのは、エリカが定番の苺のショートケーキ。キューマは甘みを抑えたガトーショコラだった。そのそれぞれに、美しい陶器に入れられたハーブティーのセットがつけられている。

『・・・・・・。』

しばしの間、無言でケーキを味わう二人。
先程までの剣幕はどこへやら、満面の笑顔で運ばれてきたケーキに舌鼓を打っていたエリカが、ふとフォークを置いた。そして、窓の外の景色に目をやりながら、仏頂面のままのキューマに向かって、何気なく言う。

「ねえ、キューマ。前々から、訊いてみたかったんだけど・・・。」
「何だ?」
「もしかして・・・あなた、私に隠してることがあるんじゃない?」
「!」

いきなりの問いかけに、キューマが手にしていたフォークをゆっくりと置く。じっとエリカを見つめ返す瞳は、冷静そのものだった。

「・・・・・・。何のことだ?」
「このパンヤ島に、私を招待してくれたのは・・・キューマ、あなたでしょ。でも、なぜか私にはそのときの記憶が全くないの。ううん、招待だけじゃない。元の世界・・・異界のことも、何一つ思い出せない。」
「・・・・・・。」
「最初は、みんなそうなんだろうって思ってたの。でも、ケンやダイスケさんは昔のことをちゃんと覚えてるみたいだし・・・。でも、いつまで経っても、キューマはそれについては何も言ってくれなくて。」
「・・・・・・。それは、オレを・・・責めてるのか?」
「ううん。」

小さく首を振るエリカ。その顔には、穏やかな微笑みが浮かべられている。

「そういうつもりじゃないの。・・・私、キューマのこと信じてるもん。キューマが話さないってことは、私は知らない方がいいことなんだろうって、そう思ってる。」
「・・・・・・。」
「でも、気になるのは確かかな。・・・みんなの昔話に、参加できないのも残念だし。」

小さく肩を竦めたエリカが、くすっと笑う。テーブルに両手をつき、やおらキューマが頭を下げたのは、このときだった。

「済まん。」
「・・・キューマ?」
「お前が今言ったことは、本当のことだ。確かにオレは、お前に・・・お前の招待の事情を話していない。お前の記憶がないのも、この事情と関係がある。・・・けどな、エリカ。一つ、信じて欲しい。これは、決して意地悪とかじゃなくて・・・その、何て言ったらいいのか。オレの方も、心の整理ができていない、というか・・・。」
「・・・うん。」
「オレも、ずっと悩んでたんだ。お前に、この話をするべきなんじゃないかって。・・・もしかしたら、今がその機会なんじゃないかと思う。・・・聞いて、くれないか。オレからも頼む。」
「うん。・・・わかった。」

微笑むエリカ。居住まいを正したキューマが、ぽつりぽつりと“真実”を語り始める。


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