次の夢  1   

次の夢


 −1−

玄関のドアを開けると、そこに見慣れない少女が立っていた。

(・・・?)

森の木々を連想させる、鮮やかな緑の髪。薄い草色のワンピースを着たその少女は、小さな箒を手に
一心に床を掃いている様子だった。
一体、これは何の冗談なのだろうか。
慎ましい男の一人暮らし。メイドの類を雇った覚えはなく、生憎そんな余裕も趣味も持ち合わせて
いない。こんな“イタズラ”を企みそうな友人の心当たりがないわけではなかったが、そもそも親しい
相手の大半は海を越えた向こうに住んでいる。こちらも可能性は低いと考えていいだろう。
ふと、相手がここで顔を上げた。そして、鞄を背負ったまま玄関に佇んでいた僕に気付く。不思議そうな
顔で辺りを見回していた少女は、僕に自分の姿を見られていることにやっと気がついたらしい。慌てて
踵を返すと、箒を抱えたまま廊下をぱたぱたと駆けていく。

「あ、あの―――――」

軽い足音が家の中に響き、そしてふっと消えた。
しばらくの間、相手が消えた廊下を呆然と眺めていた僕は、やがて小さく肩を竦めると二階への階段を
昇り始めた。突き当たりの右手にある書斎に入ると、背負っていた鞄を机の上に置き、中身・・・鉛筆の
収められた箱を取り出して傍らに積み上げる。
文章を書く必要のある職業に就いている人間の多くは、愛用のペン―――――その多くは高価な
万年筆の類だ―――――を持っているものなのだという。しかし、長いここまでの人生において、僕は
頑なに鉛筆を使い続けてきた。それを同業者に言う度に、呆れられたり感心されたりされたものだ。
「鉛筆は小さな子供たちが勉強で使うものだ」というイメージ通り、一般に文房具屋で売られている
鉛筆は廉価なものが多い。しかし、本当に質の良いものはかなり値が張り、またおいそれとは手に
入らないのは他の多くの品物と同様だ。僕の愛用の鉛筆は、北大陸の北端に位置するコーバリスで
少量生産されているもので、こうして半年に一度、業者に頼んで大量に買い付けてもらっている。
その代金は、中流階級の平均的な月収を軽く上回る程だ。
傍から見れば、さぞかしバカバカしい金の使い方に映ることだろう。でも、人には人の価値観がある。
何を大切にするかは、個人の自由だ。

「ふう・・・」

一番上の箱を開け、中身をちらりと確認する。軽く溜息をついた僕は、東に面して設えられている窓の
前に立った。そして、遥か眼下に広がるパルミの街並みと、その先の群青色の海面を眺める。
僕が終の住処として決めた家は、ナーガ諸島主島のエルタム島にある。ナーガは商業地として
有名だが、南北両大陸の狭間に位置するという立地や、その温暖な気候及び風光明媚の地で
あることから、別荘地としての需要も高かった。実際、各島の中心地である港の周辺から少し離れた
場所には多くの別荘が建てられており、かく言う僕の家も元はその一つだった。
少々建てられてから時間が経っているが、しっかりとした木造の二階建て。家の北には小さな雑木林が
あり、その中心に立つ大きなクスノキによって、この家は傘を差しかけられたような格好になっている。
山肌の中程、小さな崖の上にあるために西から南にかけての眺めは抜群、周囲には他の建物もないと
あって多少騒いだところで隣人から苦情を言われることもない。パルミ港からの距離も僅か一リーグ
足らずで、実に魅力的な物件のはずなのだが・・・実際、この家の値段はびっくりするほど安かった。
僕自身、購入の際には一桁数字が間違っているのではないかと疑ったくらいだったが、その理由が
分かったのはごく最近のことだった。
「出る」のである。
毎晩、人のいないはずの部屋から物音がする。朝になると、部屋の様子が変わっている。そして、
見えるはずのない人影が窓に映ったりするというのだ。
なるほど、そんな噂がある家がおいそれと売れるわけがない。しかし、その噂が満更デタラメではない
ことは、さっきの玄関先での出来事で証明された事になる。

(あの子は、一体・・・)

もちろん、一目その姿を目にした瞬間から、その正体については何となく予測がついていた。
ブラウニー。
北大陸に伝わる民話で、家の世話をしてくれる妖精のことだ。家の住人が寝静まった夜に現れ、
散らかった台所の片付け等のささやかな手伝いをしてくれる。そして、その“ごほうび”として住人の
牛乳をくすねるのだという。・・・我が家に牛乳はないけれど、そう言えばその代わりに紅茶の葉の
減りが早い気がする。
ここまで考えた僕は、ふと視線を感じて背後をちらりと振り返った。 書斎の入り口には、先程の少女の
姿があった。壁に隠れるようにして、おっかなびっくりこちらの様子を窺っている。
・・・まあ、無理もない。今まで自分の姿が見えていなかった相手に、急にじろじろと眺められた上、
声までかけられたのだ。あれが単なる偶然だったのか、気になって真相を確かめに来たというところ
だろう。

(よし。ちょっと、びっくりさせてやるかな)

心の中でにやりと笑った僕は、伸びをしながら何気なく言った。

「さてと。じゃあ、これから夕食の買い出しに行かなくちゃな。」

くるりと振り返ると、相手に向かってにっこりと笑いかける。

「何か、食べたいものはあるかい?」

小さく跳び上がった相手が、顔を真っ赤にした。二度三度と小さく首を振ると、大慌てで階段を
駆け下りていく。その微笑ましい様子に、こちらまで思わず笑みが零れてしまう。
空になった鞄を再び背負い、家を出る。玄関を出たところで僕は立ち止まり、自分の家・・・そして、
それを守るようにして立っているクスノキに目をやった。
初めてこの家を目にした瞬間、言いようのない“何か”を感じた。懐かしさ、温かさ、優しさ・・・言葉に
するのは難しいけれど、何となく“故郷”を連想させる何か。そう、それは「生きている」という言葉こそが
相応しいのかも知れない。
視線を家から、その背後の青々とした葉を茂らせているクスノキに移す。その刹那、僕はハッと
閃いた。

(そうだ。・・・あの子は、もしかしてこの木の精霊じゃないかな)

いくら家の北側に立っているとは言え、日当たりが悪くなるのは間違いなかったし、また落ち葉などを
嫌う住人もいる。本来ならば、この家を建てる際に伐られてもおかしくないはずだったが、余りに見事な
木だったので建設業者も伐採を躊躇ったのだろう。
そして、この木は建てられた家と共に時を歩むことになった。長い長い年月を経た暁には、いつしか
この家を守るという意識が芽生えてもおかしくない。・・・こうして、あの子はこの家の世話をするように
なったのだろう。そして、その姿を垣間見た誰かによって、「幽霊屋敷」というありがたくない風評が
生み出されたに違いない。
最初に気付いたのは、靴だった。玄関に適当に脱ぎ散らかしておいたはずの靴が、翌朝にはきちんと
揃えて置かれている。乱雑に積み重ねておいた食器類がきれいに整頓されていたこともあったし、
取り込んだまま放っておいた洗濯物が畳まれていたこともあった。
そして、僕が唯一苦手とする家事である掃除。滅多に掃除をしないにも拘らず、この家の中は驚くほど
きれいで清潔だった。それはきっと、あの子のお蔭なのだろう。もちろん、こちらとしては歓迎しこそ
すれ、文句を言う筋合いはなかった。
そんな家を、偶然とは言え手に入れたのだ。考えるだけで愉快になってくる。

「鍵、頼んだよ。」

家の中に向かって一声掛けると、僕は弾むような足取りで歩き出した。
家から市場までの行き帰りには、かなりの距離の坂道を歩く必要があった。特に雨の日の外出は
一苦労だったが、それが自分の健康に繋がることを信じて、僕は毎日その長い道を往復している。
事実、一時期はかなり出ていた下腹も、ここで暮らすようになってからは目立たなくなった気がする。

「さて、と・・・。」

目的地に辿り着いた僕は、辺りをゆっくりと見回した。
市場は、パルミ港に程近い場所にある。このナーガ諸島は土地には恵まれておらず、主要な食料品の
類も基本的に他国からの輸入によって賄われている。従って、海産物だけではなく穀物や野菜・果物の
類まで、全てがこの市場に並べられることになるのだ。
並べられた商品を眺めながら、ゆっくりと市場の中を散策する。この時間が、僕は好きだった。商品の
産地を尋ね、その風景に思いを馳せる。そうすると、その地で出会った多くの人々の顔が浮かんで
くるのだ。もちろん、こんなことができるのも、僕が南北両大陸を渡り歩く生活をしてきたからに
他ならない。
夕食のための食材は、すぐに手に入った。買い残したものはないか考えていた僕は、あることを
思い付いてその足をパルミの中心街の方へと向けた。目的地は、豊富な輸入雑貨・・・主に陶器の
類を扱っている店だった。

「マグカップが欲しいんだけどね。」
「ええ。どのようなものをお探しですか?」
「何て言うかなあ。・・・そうだ、娘にプレゼントしようと思ってね。ひとつ、うんとかわいいやつを頼むよ。」
「かしこまりました。」

我ながら取って付けたような説明だと思ったが、相手はそれには気付かなかったらしい。何となく
気まずい思いをしていた僕のところへ、しばらくして店員が一つのカップを手に戻ってきた。

「これなど、いかがでしょうか。」
「うん、いいね。・・・悪いけど、包んでもらえるかな?」
「はい。少々お待ちください。」

僕の愛用のカップは、その昔教え子が作ってくれたものだった。「絶対に壊れませんよ」と本人は胸を
張っていたが、その言葉に嘘偽りはなく、それから二十年近くが経った今になってもそのカップは
健在だった。勢い、こうした店には縁がない生活が続いている。

「お待たせいたしました。」
「うん。ありがとう。」

包みを受け取り、代金を支払って店を出る。

(たまには、こんな買い物もいいもんだ)

そんなことを考えながら、僕は家路についた。
・・・また、長い上り坂が僕を待っている。しかし、それはいつもほど辛くは感じられなかった。


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