次の夢
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「ふー・・・。」
夕食を終え、淹れ立ての紅茶で一服する。一日で、最も心休まる瞬間だ。
結局、僕の帰宅から夕食に至るまで、少女は姿を見せないままだった。実際、精霊はその存在に
必要なエネルギーを自らが宿る対象――――それは、植物から自然現象まで実に様々だ――――
から得ており、必ずしも食事をする必要はないのだという。これも、南大陸にいる間に得た知識
だった。
――――――――――かさり。
(・・・?)
ここで、背後から小さな物音が聞こえた。窓から眼下の夜景を眺めていた僕は、書斎の入り口の方を
振り向いた。
床に落ちていたのは、ドアの脇の戸棚に載せられていたはずの常備薬の入った袋。その傍らに、件の
少女の姿があった。
(そうだ、薬。忘れてた・・・)
目が合った瞬間、相手は決まり悪そうにそっぽを向いた。その指先が遠慮がちに床の袋に向けられて
いることに気付き、僕は微笑んだ。座っていた椅子から立ち上がり、相手に向かって歩み寄りながら
声をかける。
「済まないね。危うく飲み忘れるところだったよ。」
外見からそれとは分からないが、僕にはもう長年の付き合いになる持病があった。まだ若い頃、渡った
ばかりの南大陸で随分と無茶をした。それが、今になって堪えているのだという。
診断を下してくれたのはかつての同僚で、彼は今も南大陸で忙しい日々を送っている。進んだ
南大陸の医療を持ってしても完治は無理で、作ってもらった薬を飲むのが、持病の悪化を止める
ことのできる唯一の方法なのだという。
(そうか。こうやって、何気なく知らせてくれてたのか)
床に落ちていた袋を拾い、中から取り出した薬を飲む。それを確認し、書斎から出ていこうとした
相手を僕は呼び止めた。
「あ、ちょっと待って。」
立ち止まり、小首を傾げた相手に、僕は小さな包みを手渡した。
「はい。これを君に進呈しよう。」
「?」
「台所の紅茶、君も飲んでるだろう? ・・・ああ、それは別に構わないんだけどね。この家にあるのは、
何の飾りっけもないカップばかりだろ。それも、こんなおじさんと一緒のじゃ悪いからね。だから、これを
使ってくれるかい?」
「・・・!」
包みから出てきたのは、サクランボの描かれた薄い桃色のマグカップだった。しばらくの間、呆然と
自分の手の上にあるカップを眺めていた少女は、やがて顔を輝かせると小さく頷いた。
「そう、良かった。・・・はい。」
部屋に持ち込んでいたポットから、差し出されたカップにまだ熱い紅茶を注ぐ。湯気の立つカップを
大事そうに持ち、そっと傍らのベッドに腰掛けた相手に向かって、僕は笑顔で声をかけた。
「これから、仕事を始めようと思うんだけど・・・その前に。もし君が良ければ、しばらくの間僕に
付き合ってくれないかな。君と話がしたいんだ。」
慌てて相手が首を振りかけたところへ、宥めるように手を挙げる。
「ああ、話っていってもね、僕の話の聞き役になってくれればそれでいいんだ。別に、君のことを根掘り
葉掘り聞こうって思ってるわけじゃないから。」
「・・・・・・。」
「知っての通り、僕は一人暮らしだし・・・友人がここを訪ねてくることもない。他の人と話をする機会は
あまりなくてね、ちょっぴり寂しい思いをしてたんだ。・・・どうかな。」
「・・・・・・。」
「そうか。ありがとう。」
しばらくの間考える様子だった相手は、やがておずおずと頷いた。手元の紅茶を一口啜った相手に
向かって、僕はゆっくりと話し始めた。
「僕は、海の向こうの生まれでね。イゼルニアっていう小さな国のセイファンという町が僕の故郷
なんだ。・・・イゼルニアってのは変わった国でね、特に有名なのがその郷土料理さ。海産物の
使い方が独特でね、古代アルバ帝国をその発祥とするアルバ料理、隣のオーセルトの料理と並んで
“世界三大料理”なんて言い方をされたりするんだ。・・・そんなお国柄か、この国出身者はアクの
強い人が昔から多くてね。かく言う僕も、もちろんその一人さ。」
「・・・・・・。」
「・・・小さい頃から、とにかく変わった子供だったな。一応、勉強は他人よりできたからね、いじめ
られたりはしなかったけど・・・とにかく好き嫌いが激しくてね。自分が好きなことはとことん突き詰める
けど、嫌いなことには見向きもしない。さぞかし、周りの皆は苦労したと思うよ。」
もちろん、その性癖は今でも全く変わっていない。・・・昔と違うのは、その極端な性格を表面には
出さずに、他人と付き合えるようになったことだ。
「意外に思うかも知れないけど、実は僕は人と接するのが嫌いだったんだ。昔はね、“将来は人間を
相手にする仕事なんて、絶対にしないからな”と固く心に決めてたもんさ。・・・ところがね。学生の頃に
子供に勉強を教えるっていうアルバイトをさせられてね。・・・もちろん、父さんに言われて無理矢理さ。
ところがさ、これがやってみると面白くてね。いやー、あの時は本当に“百聞は一見に如かず”という
諺の意味が身に沁みたね。」
まさに、“百聞は一見に如かず”は僕の人生を象徴する言葉だった。両親から、教師から、そして
友人からの忠告の言葉。そのどれもが、素直に受け入れることができたのは、それを自身で経験
した後だった。
極端な食生活のせいで、体を壊してしまったこと。一人で生きていくのが、どんなに大変なのかという
こと。・・・そして、両親の死。
「で、先生になりたいなって思ったのさ。でも、僕の国だとちゃんとした資格がないと国立の学校の
教師には採用されないんだ。まあ、学校にも色々と堅苦しい規則があってね、それにも馴染め
なさそうだったからいいんだけど。・・・そんなとき、将来のことを巡って父さんと大喧嘩をしてね。」
家族との関係が悪化し始めたのは、僕が二十歳を過ぎ、弟が一足先に独立した頃からだった。
それまではわがままな弟にかかりきりだった両親が、長い間放任していた僕に向かって、あれこれ
言ってくるようになったのだ。それまで思うままに生きてきた僕と両親・・・特に父と本格的に衝突する
ことになったのは、当然の成り行きだった。
今でも悔いが残るのは、生きている間に両親に何一つ孝行ができなかったことだ。いくら勘当同然で
家を飛び出したとは言え、何かできることがあったはずだと今は思う。“親孝行したい時には親はなし”
とはよく言ったものだ。
「勢い余って、家を出ちゃったんだ。親子だからね、僕も父さんも頑固で強情で意地っ張りでさ。
向こうはこっちが謝らないと絶対に許さないって言うしさ、こっちはこっちで絶対に家になんか
戻るか! って感じでさ。」
僕の話を、少女は目を丸くして聞き入っている。・・・彼女にしても、こうして誰かの“話し相手”に
なるのは初めての経験なのだろう。
「それで、どうせならうんと遠くまで行ってやろうと思ってね、行った先はなんと南大陸さ。いやいや、
我ながら無謀だと思うけど、当時は僕も若かったからね。今だったら、そんな行動力を発揮するのは
難しいだろうな。」
南大陸では、実に様々な経験をした。気ままな一人暮らしに、今まで単なるおとぎ話だと思っていた、
竜や精霊といった人間以外の存在との触れ合い。・・・そして、実ることのなかった初恋。
「うん、今度はちゃんと竜術士の資格を取ったよ。・・・でも結局、術士にはならなかった。・・・僕には、
相手の人生を預かるなんて責任ある仕事は務まらないよ。こんなひねくれた性格じゃ、きっと相手を
不幸にしちゃうからね。」
少女が、慌てた様子でかぶりを振った。笑顔で頷きながら、僕は少し遠い目をした。
「僕には、夢があった。いつか、趣味で身を立てたいっていうことさ。・・・それで、四十歳を迎えて
一念発起、南大陸からここに移り住んだって訳なんだ。」
「・・・・・・。」
「音楽でその芽は出なかったけど、幸い小説の方では少しずつ認められるようになってね。今は、
なんとか蓄えを使わなくても生活できるようになった。」
ここで言葉を切った僕は、椅子から立ち上がると窓の前に立った。そして、煌くパルミの夜景と、
ガラスに映った少女の姿を等分に眺める。
「ずっと、一人で生きてきた。家族なんて、煩わしいだけだって思いながらね。・・・でも、この歳になると
・・・ふと寂しいと思う瞬間があってね。はは、これが人間の性なのかも知れないね。」
まだ学生の頃、言われた言葉。「人は、一人きりでは生きていけない。だから人“間”というのだ」と。
しばらくの間黙り込んだ僕は、高鳴る鼓動を感じながら軽く目を閉じた。
言わなければならないことがある。自らの人生で初めての、「告白」。
「生涯を、共に過ごしてくれる相手が欲しいんだ。特別なことは、何もなくていい。・・・ただ、一緒に
笑い、一緒に泣いてくれる相手が。」
振り向いた。相手の目を真っ直ぐに見つめる。・・・驚くほど、素直に言葉が出てきた。
「僕の家族に・・・なってくれないか。」
びっくりした顔でこちらを見つめていた相手が、俯いた。
永遠にも思える、数秒。祈るような気持ちでいた僕の目の前で、顔を上げた少女は小さく・・・しかし、
はっきりと頷いた。
(・・・・・・)
にっこりと笑った僕は、こちらも笑顔になった相手に手を差し伸べた。
「おいで。歓迎のコンサートを開こう。」
「?」
「客間に、小さなピアノがあるのを知っているだろう? 昔、南大陸で手に入れたものさ。大した曲が
弾けるわけじゃないけど、君と知り合えたことを祝って、ね。」
差し出された、相手の手を取る。それは小さく、しかしこの上なく温かかった。