イノセンス  1   

イノセンス


 −1−

二人の一日は、お互い名前を呼び合うことで始まる。

「おはよう、ククル。」

竜の姿で眠るククル。目覚めたユーニスが名前を呼ぶと、その名に反応したククルの体が光に
包まれる。こうして再び人の姿を取り戻したククルは、輝くような笑顔を浮かべて言うのだ。

「ユーニス、おはよー!」

毎朝ユーニスの最初の仕事は、ククルの髪を編んでやることだった。
腰の上までの、水色の長い髪。僅かにウェーブのかかったそれを首の後ろから三つ編みにして、
先端を蔓草で縛る。

(よし・・・今日は上出来だ!)

その出来栄えを満足そうに眺めたユーニスが大きく頷き、ククルの頭をぽんと叩く。編み上がった髪を
握り締め、ククルも嬉しそうにユーニスに向かって笑い返した。

初めての人化を果たした際、ククルは比較的長い髪を具えた姿となった。
余程自らの髪が珍しかったのか、ククルは四六時中それをいじくり回し、最後にはとうとう髪を口に
入れてしまう始末だった。何度言っても髪をしゃぶるのを止めようとしないククルを見るに見かね、
ユーニスが彼の髪を編むことを決意するまでには、そう時間はかからなかった。
もちろん、生まれてからこの方、他人はおろか自分の髪も編んだことのなかったユーニスのことで
ある。見よう見まねで挑戦した初めての“三つ編み”は、何やら編んだのだか丸めたのだかよく
分からない出来栄えになった。それを見たククルが素直に喜んだため、ユーニスの恥ずかしさは
一層募ることになった。それから試行錯誤を重ねること三日・・・こうして、ようやくユーニスが
「三つ編み」らしくククルの髪を編み上げることに成功したのは、実は今朝が初めてなのだった。

ククルの髪を編み終えたユーニスは、立ち上がると近くの小川へと向かった。その後から、ククルが
ちょこちょこと付いてくる。
小川の水を掬い、簡単に顔を洗う。隣でそれを真似するククルの仕草も、今は随分人間らしくなった。

「そうだ・・・上手になったじゃないか。」
「そうか?」

竜の姿で長い間過ごしてきたせいか、ククルには「手を使う」という発想が乏しかった。そのため、
初めてユーニスに「川で顔を洗え」と言われたククルは、躊躇うことなく首を直接川に突っ込んだの
だった。
当然その後はお決まりの経過を辿り、川に落ちたククルをユーニスは大急ぎで引き上げなければ
ならなかった。泳ごうともしないククルに「お前は水竜だろう!!」と怒鳴ったユーニスに対して、当の
本人は不思議そうな顔で首を傾げただけ。・・・水竜は溺れることがなく、従って泳ぐ必要もないのだと
ユーニスが知るのは、もう少し後のことである。


  *


簡単な食事を済ませると、二人は東へ向けて出発する。
海岸線のすぐ傍まで迫っている深い森。道らしい道もなく、地図もない状態でその中を進むのは
困難である。だが、海岸沿いにはある程度の幅の砂浜が続いており、そちらを通れば旅にさほどの
苦労はなかった。

「おい・・・あまり、遠くへは行くなよ。」

辺りを走り回っていたククルに、無駄と知りつつもユーニスは声をかけた。
ククルの視線の先には、鮮やかな赤い翅の蝶がいた。ユーニスにできることは、蝶に目を奪われて
いるククルが、躓いて転んだりしないことを祈ることだけだった。

(やれやれ・・・)

小さく首を振ったユーニスは、左手に海を見ながらゆっくりと歩き始めた。
気が付くと、ククルはすぐにいなくなる。
興味の赴くままに、あっちへちょろちょろ、こっちへふらふら。そして、痛い目に遭っては泣きながら
ユーニスの許へ駆け戻ってくる。この繰り返しなのだ。
興味を示す対象も、実に様々だった。特に食べ物(らしきもの)と、動くものや光るものに対しては
目がないらしい。
折りしも、ククルが追いかけていた蝶が、ひらひらと森の中へと入っていった。

「まてー!」
「あっ、おい・・・」

ごいん。
無心に蝶を追いかけていったククルは、森の入り口に行く手を遮るように張り出していた枝に強かに
顔を打ち付けた。そのまま、もんどりうってその場にひっくり返る。
そちらに向かって手を差し出した状態で一瞬固まったユーニスは、我に返ると慌ててククルの許へと
駆け寄った。

「う・・・うぐぅ・・・」
「ほら、しっかりしろ。・・・だから、今は人の姿だからとあれほど・・・!」
「ら・・・らってぇ・・・」

鼻を打ったらしく、顔の中央を押さえて蹲っているククルに向かってユーニスは声を荒げた。
そもそも、竜と人間ではその体躯に大きな差があった。いかにククルがまだ子供だと言っても、竜の
姿であれば大抵の藪は掻き分けられるし、小さな木であれば難なく薙ぎ倒して進むことができる。
だが、人間の・・・それも、まだ少年の姿ではそれも難しい。躊躇いなく藪や木の枝に向かって突進(?)
することを繰り返した結果、出会って数日の間に既にククルの体は傷だらけ、頭はコブだらけになって
いた。一向に改まらないこの性癖に、ユーニスは頭を抱えていたのだった。

そして、問題はそれだけではなかった。竜と人との大きな体形の差もその一つである。
流石のククルも、“人の姿では空を飛べない”ということはすぐに理解したようだった。だが、竜の姿で
いたときの習慣はすぐには抜けてくれない。ククルが興味を示す何か・・・特に“食べ物”を目にした
時には、最初にどうしても手ではなく“首”が出てしまうのだ。釣り針にかかった魚よろしく木の枝に
ぶら下がったククルを、ユーニスが慌てて助けなければならなかったのも一度や二度ではない。

(もし赤ん坊が好き勝手に動き回れたら、こんな感じになるのかも知れないな・・・)

ふっと微笑んだユーニスはここで、ついさっきまで自分の隣を歩いていたはずのククルの姿が、
いつの間にか忽然と消え失せているのに気が付いた。

(あいつ・・・!!)

慌てて辺りを見回すユーニス。・・・と、すぐ近くの森の中からめりめりという木の裂けるような音と、
何かがどさりと地面に落ちる鈍い音がした。同時に、かわいい悲鳴。

(またか・・・)

額に手を当てたユーニスは、森に向かって駆け出した。入ってすぐのところに一本の桃の木があり、
その根元には痛そうに腰をさすっているククルがいた。傍には折れた桃の木の枝と、齧りかけの桃が
落ちている。

「お前・・・。また、いきなり噛み付いたのか。」
「だって・・・」
「いいか、今は人の姿なんだ! まずは手を使え!!」

怒鳴り付けながらも、手早くククルの体の各部に触れて怪我の有無を確かめていく。
どうやら、特に骨が折れたりということはないようだ。ホッと胸を撫で下ろしたユーニスの前で、ククルが
慣れない手つきで桃を拾い上げる。

「ユーニス、こうか?」
「そうだ。そうやって手で持って、口に運ぶんだ。」
「えへ・・・」

嬉しそうに笑ったククルは、桃を食べようと大きく口を開けた。

「そうだククル、桃には固い種があるから気を付け・・・」
「あがああっ!!」

(遅かったか・・・)

振り向いたユーニスがそう言いかけた時には、既にククルは桃に思い切り噛み付いてしまっていた。
大粒の涙を浮かべて今度は口元を押さえたククルを前に、ユーニスは大きな溜息をついたのだった。


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