トランス  1   

トランス


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コーセルテルは初夏を迎えていた。
風竜の月も終わりに近付いたこの日、地竜のジークリートは一人道を急いでいた。その表情は、
爽やかな気候とは裏腹に実に冴えないものだった。
目指すのは、妹とその術士が住む家。その玄関先に辿り着いたジークリートは、小さく溜息をつくと
扉をノックした。

「はーい!」

ややあって顔を出したのは、妹のアトレーシア本人である。片手に水の入った桶を抱えた
アトレーシアは、ジークリートの姿を認めると少し驚いた顔をした。

「お兄ちゃん! 学校は、どうしたの?」
「今日の実技は先生の担当だぞ? 肝心の本人が来ないんじゃ、授業も何もないだろうが。」

苦笑いしたジークリートは、家の中を覗き込むようにして尋ねた。

「それより・・・先生は? 今日はどうしたんだ?」
「お腹が痛いんだって。」
「いつからだ?」
「お昼ご飯の後。わたしは何ともないから、変なものを食べたわけでもないと思うんだけど・・・」
「そうか・・・。」

(やっぱりな・・・)

げんなりした表情を浮かべたジークリートは、心なしか肩を落とした。

「とりあえず、先生のお見舞いをさせてもらおうか。」
「うん。ノエルも、きっと喜ぶよ! いつも、お兄ちゃんが来ると具合が良くなるし。」
「・・・・・・。」

妹の後から、家の中へと入る。寝室に足を踏み入れたジークリートは、ベッドの中の相手・・・
地竜術士のノエルを冷たく見下ろした。

「先生。・・・具合はいかがですか。」
「ジ・・・ジークリートくん。」
「それにしても・・・。毎週毎週、どうして学院の剣術指導の日に体調が悪くなるんでしょうね。それも
決まって午後から。」
「そ・・・それは、その・・・。」

ジークリートの嫌味に、布団の中に顔を半分ほど引っ込めたノエルは冷や汗をだらだらと流している。
これでは「これは仮病です」と言っているのと同じことである。
小柄で童顔、そしてそのおどおどした態度から、ノエルと初めて会った相手はノエルのことを女・・・
それも少女だと勘違いするのが常だった。これが剣の天賦の才に恵まれ、僅か十六歳にして一時
北大陸中を震え上がらせた「剣聖」と呼ばれた男だというのだから、「天は二物を与えず」とはよく
言ったものである。

「とにかく、先生がいらっしゃらないと授業が始まりません。皆、首を長くして待っているんですから。」
「でも・・・。今日は、体調が・・・」
「では、学院の診療所まで私が先生をお連れしましょう。そこで治療を受けられれば、すぐに良くなると
思いますが。・・・それとも、私の友人たちにここに来てもらいましょうか?」
「それは・・・」

“私の友人たち”とは、もちろんジークリートの幼馴染である木竜エルフィートとアルフェリアのことだ。
病人の治療という大義名分を与えられた二人は、嬉々としてここへ駆け付けてくるだろう。もちろん、
そこで何が起こるのかは考えるまでもない。
青くなって首をぶんぶんと振ったノエルに、ジークリートは追い討ちをかけた。

「ほら、どうです? もしかして、具合が良くなって来たんじゃないですか?」
「え・・・あ・・・うん。そ、そうかも・・・」

ジークリートの瞳に宿った“いい加減にしてください”という苛立ちの色に気付いたノエルが、慌てた
様子で頷いた。
こうして、ベッドから出て身繕いを始めたノエルを目にしたアトレーシアが、感嘆の眼差しを
ジークリートに向けた。

「お兄ちゃん、すごいね。話してるだけで、病気を治せるなんて・・・」
「お前なあ・・・」

呆れた様子で妹の方を見やったジークリートは、喉まで出かかった小言を飲み込んだ。
人を疑うことを知らず、絵に描いたようなお人良しであるノエル。その性格は、妹のアトレーシアに
しっかりと受け継がれている。・・・この世知辛い世の中の“現実”をかわいい妹にわざわざ
突き付けるのも気が引ける。

「行ってきます・・・」
「うん! お仕事頑張ってね、ノエル。」
「・・・・・・。」

こうして、アトレーシアの曇りのない笑顔に見送られた二人は家を後にしたのだった。一人は
不承不承、そしてもう一人は心底呆れ返りながら。


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