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「はぁ・・・」

宮殿の廊下を歩きながら、ヒューは小さく溜息をついた。
ここ一月ほど、彼には密かな悩みがあった。残念ながらいくら考えても理由は思い浮かばず、結果的に
それが心の中に引っかかったままになっている。
こんな風に、うじうじと思い悩むなんて自分らしくないとも思う。普通だったら、とっくに相手に直接この
ことを言って事態の決着を図っているはずだった。しかし、この時のヒューには、そうできない切実な
理由があったのだった。

(あ・・・)

何気なく顔を上げると、大広間の入り口で立ち話をしているユーニスの姿が目に入った。
近付くにつれて、会話が少しずつ耳に届くようになる。柱の陰に隠れて見えないが、声からすると
相手は侍医長の木竜パルムらしい。

「・・・それは、確かにお辛いでしょう。」
「そうなのだ。何か、良い方法はないだろうか。」
「しかし・・・こればかりは、おいそれと直すことのできるものでもありませんし。」
「うむ。・・・実は、私もほとほと困り果てているのだ。」
「ここはやはり、その都度対症療法を行うのが一番・・・」
「ユーニス。」

話に割り込むようにして声をかける。ヒューの方を振り向いたユーニスは、そこで・・・いつものように
一歩身を引いた。

(またか・・・)

これが、ヒューの“悩み”の正体だった。
初めてそのことに気付いたのは、一月ほど前のことだったか。
ユーニスは、自分と話をする時は必ず一歩・・・自分から離れるようにして立つ。ある日それが、ふと
気になったのだ。
単なる癖なのか、それとも意識してそうしているのか。本当のところは分からないままだったが、それ
以来ユーニスと会うたびに、このことが気になって仕方なくなってしまった。
しかし、面と向かって訊くのも怖い。もし、はっきりと拒絶の言葉を出されてしまったら。・・・そのことを
考え、ヒューはこれまで二の足を踏んできたのだった。

「では、私はこれで・・・。」

小さく頭を下げたパルムは、逃げるようにしてその場を去っていった。しかし、その一瞬・・・二人の
ことを見る目に楽しそうな色が浮かんだのを、ヒューは見逃さなかった。

侍医長パルム(リンさん作画)

「・・・もしかして、聞いていたのか?」
「え?」

パルムの後姿を忌々しそうに見やっていたヒューに、ユーニスが何気なく言った。

「今の話だ。パルムと私の・・・」
「いや? そんなことはないが。」
「そうか。ならいいが・・・」
「何だよ。ひょっとして、オレの噂話でもしてたのか?」

ほんの冗談のつもりで訊いただけだった。しかし、ヒューの予想に反してユーニスの表情ははっきりと
強張った。

「・・・・・・・・・いや。別に。」
「何だよその間は。・・・まさかおまえ、オレに聞かれちゃまずいことを・・・」
「そんなことはない。」

きっぱりと否定するユーニス。しかし、その妙な力の入りようはやはり不自然だった。
顔を歪めたヒューは、さらに問い詰めようとユーニスに向かって一歩足を踏み出した。それに
合わせて、ユーニスもまた一歩後ろへと下がる。

「けどな・・・」
「ユーニス様!」

ヒューが口を開きかけた時、大広間の中からユーニスを呼ぶ声がした。そちらをちらりと振り向いた
ユーニスは、ヒューに小さく頭を下げた。

「済まんな。話は、また後で聞こう。」
「あ、おい・・・」

踵を返し、去っていくユーニスの後姿を眺めていたヒューは、やがてその拳を握り締めた。
やはり、自分は避けられている。ユーニスが自分との距離を置こうとしていることは、今の会話でも
はっきりと分かった。
しかし、分からない。一体、何がユーニスの気に触ったのだろうか。
あの日・・・彼女が、自分の求愛を受け入れてくれたあの日。ユーニスは、まるで少女のように可憐で
従順だった。
しかし、その後はまた、今まで通りの態度に戻ってしまっている。
宮殿の中で会っても、他の竜たちに対するように他人行儀な表情を見せるだけ。それは「竜術士とその
教師役の竜」という関係から一歩もはみ出すものではなく、それ以上でもそれ以下でもなかった。
こんな日々が続くと、いかな楽天家を自負する自分でも段々不安になってくる。
本当に、ユーニスは自分のことを―――――

「・・・ヒュー。」
「何だ!!!」

不意に後ろから声をかけられて、歯軋りをしていたヒューはばっと振り向いた。いつの間にかそこに
立っていたグレーシスに向かって、噛み付きそうな勢いで怒鳴る。

「全く、何をそんなに苛々しているんですか。・・・自慢の髪の毛まで逆立っているじゃありませんか。」
「なっ・・・!?」
「もちろん、冗談ですよ。・・・本気にしたんですか?」
「・・・くっ!! こ・・・このタレ目が!!」
「そもそも、あなたの目が吊り上がり過ぎなんですよ。」

慌てて頭に手をやったヒューは、からかわれていることに気付くと顔を真っ赤にした。浴びせられた
罵声を鮮やかに切り返したグレーシスは、改めてヒューに向き直った。

「それより、何があったんです? こんな所でぼんやり考え事なんて、あなたらしくもないじゃ
ありませんか・・・ヒュー。」
「ふん! 放っておいてくれ。」
「そうですか? ・・・私で宜しければ、話してくれませんか。」
「・・・・・・。」

しばらく逡巡したヒューは、やがてそっぽを向いたままぼそりと言った。

「・・・ユーニスがさ。」
「はい。ユーニス様が、どうかされたんですか?」
「最近、何だかオレを避けてるみたいなんだよ。」
「避けている? どうして、そう思うのですか。」
「あのなあ!」

ここでグレーシスの方を向いたヒューは、堰を切ったように自身の鬱憤をぶちまけ始めた。

「オレが傍に立つと、必ず一歩後ずさるんだよ! それは、オレの傍にいるのが嫌だってことになるじゃ
ないか!」
「それはまあ、そうですが。」
「気付いてからもう一月になるが、結局今もそのままだしな! 四六時中チビどもが一緒で、おちおち
理由を訊くこともできねえ。・・・今だって、結局すぐに逃げられちまったしよ!!」
「そのようですね。・・・しかし、何か心当たりはないのですか?」
「それがないからこうして困ってるんだろうが!! ・・・ったく、涼しい顔してさらりと訊きやがってよこの
キザめ!!」
「暑苦しい今のあなたよりは、何倍もマシだと思いますが。」
「何だと、この・・・ッ!!」
「ユーニス様は。」

顔を赤くして手を振り回したヒューに向かって、グレーシスは静かに言った。

「ユーニス様は、理由もなく他人を嫌われる方ではないと思います。もし、苦手に思う相手がいらしたと
しても、それには必ず理由があると思いますし・・・何より、ユーニス様の性格からすると、そのことは
相手にもちゃんと仰るのではないでしょうか。」
「そりゃ・・・ま、そうかも知れないけどよ。」
「ですから・・・。信じて、もうしばらく待って差し上げてはいかがでしょうか。・・・ユーニス様があなたの
ことを大事に思われているからこそ、言い出せないこともあるのだと思いますよ。」
「・・・そんなもんか?」
「そうですよ。必ず・・・ユーニス様が思いの丈を打ち明けてくださる日が来るはずです。」
「・・・そう、か。・・・うん、そうするか。」

こちらからユーニスに本当のことを訊けない以上、確かに今はユーニス自身がそれを語ってくれるのを
待つべきなのだろう。不承不承ながらも頷いたヒューの様子に、グレーシスは微笑むと頭を下げ、
大広間へと入っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ヒューは小さくぼやいたのだった。

「本当に・・・どうしちまったんだ? ユーニス・・・」


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