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「うーん・・・」

ロアノーク宮殿の一角。竜王の竜術士セリエの三番竜であるスイランは自室にいた。手にしていた
ペンを机の上に投げ出し、椅子の背に大きくもたれかかる。
机の上に広げられた本のタイトルには「応用木竜術」とあった。少しでも自らの術士であるセリエの
役に立ちたくて、時間があればこうして術の勉強に励むようになってから、もう随分になる。

(もう、こんな時間・・・?)

手元の時計に目をやったスイランは、僅かに眉を寄せた。その針は、既に十一時を回っている。
術力が付くにつれて勉強も捗るようになったが、やはり自分一人での学習にはまだまだ限界があった。
こうして誰かに訊かなければ分からないことが出てくることも多いが、この時間では廷臣のほとんどは
自宅に戻っているだろう。自らの術士であるセリエを起こすのも気が引けるし、かと言ってこと木竜術に
関しては、兄弟たちは頼りにならない。

(どうしよう・・・もう、明日にしようかな)

椅子から立ち上がったスイランは、小さく伸びをしながらバルコニーに面した窓に歩み寄った。
そこから、夜の帳の下りた庭園の様子を眺める。・・・明るい月の光に照らされ、庭園は静かな
佇まいを見せていた。

(そうだ。・・・パルムなら、まだ起きてるよね)

宮廷に詰める侍医たちには、不測の事態に備えて「不寝番」と呼ばれる当直勤務がある。
この日、侍医長であるパルムがその徹夜の勤務に就いていることを、スイランは知っていた。パルムは
同じ木竜であり、木竜術について尋ねるには最適の相手と言えるだろう。
小さく頷いたスイランが、窓の傍を離れようとしたときだ。

(あれ・・・?)

闇に沈む庭園を、人影が横切ったような気がした。再び窓の前に立ち、じっと目を凝らす。

(姐上・・・?)

特徴のある、長い後ろ髪。小柄な身体に無駄なのない身のこなし。・・・予想通り、どうやらそれは
スイランの術士のようだった。
もちろん、まだ子竜の身の上である自分たちならいざ知らず、一人前の大人であるセリエが夜の
庭園にいること自体は、決しておかしくはない。単にセリエの姿を見かけたというだけだったら、
スイランもさして不思議には思わなかっただろう。
しかし、このときのセリエの様子は、どこかいつもと違っていた。事実、月の光に照らし出されたその
横顔は、ひどく思いつめたものだった。
何となく嫌な予感に襲われたスイランは、部屋から出ると急いで一階へと下りた。庭園へと通じる扉を
出たところで、周囲を素早く見回す。

(・・・!)

庭園の木立。その縁に立ったセリエは、丁度その中へと足を踏み入れるところだった。と同時に、その
後姿が溶けるように消え去っていく。

(森影流・・・!)

広い庭園を駆ける。セリエが消えたと思しき辺りに辿り着くと、息を弾ませながらもスイランは自らの
木竜術を発動した。
本来ならば、昼間でも薄暗い森なのだ。いくら月が出ているとは言え、深夜に灯りも持たずにその中へ
分け入ることは不可能に近い。しかし、こうして木竜術を遣うことで、セリエの居場所も、森の中に
通じている小道の場所も、全て森の木々が教えてくれる。これも、木竜であるからこそできる
芸当である。

(・・・・・・)

ゆっくりとセリエの後を追いながら、スイランの心中は複雑に揺れ動いていた。
明らかに、今のセリエは人目を避けている。しかし、それは何故なのか。
考えてみれば、セリエは自らのことを何一つ自分たちに話してくれていない。もちろん、以前は北大陸
屈指の暗殺者であり、竜王暗殺のためにこの地を訪れたことくらいは知っている。しかし、何故その
ようなことになったのか・・・そして、竜たちにとっては“仇”とも言うべき立場のセリエが、何故竜術士の
頂点に立つ“竜王の竜術士”としてこの地に迎えられることになったのか。全ては分からないこと
ばかりだったが、それは面と向かって本人に聞けるようなことではなかった。
もしかして、セリエが自らのことを語らないのは・・・自分たちと必要以上に親しくならないためでは
ないのか。そう、竜王の暗殺を企んだことへの贖罪として、セリエは自分たちの育成を引き受けた
可能性もある。だとすれば、セリエはいずれ自分たちを残してこの地を去ることになるのだろうか。
・・・あり得ないと思いつつも、こうして考えれば考えるほど不安になってしまう。


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