ココロの在処    2   

 −2−

その年は、例年にない大雪が世間を賑わわせた年だった。

「ただいまー!」

三月に入って、しばらくが過ぎたある日。いつものように自宅へと戻ってきた陽太は、自室へと駆け
込むなり、パソコンデスクの前に立った。そして、興奮に震える指で電源ボタンに触れる。
久しぶりに入れる、パソコンの電源。大学受験が終わり、その結果が出るまではパソコンは封印する
―――――自らにそう誓い、それを頑なに守り続けた日々にも、ついに終止符が打たれる日がやって
きたのだ。
しばらくしてその場に現れた千尋は、顔を輝かせてその場に立っていた陽太を、少し驚いた様子で
見つめた。

『おお、陽太か。久しいな・・・』
「そうだね、千尋。もう、二月になるんだからね。」
『試験は、どうであった。・・・結果が出たのであろう?』
「これを見てよ。」

陽太が意気揚々と鞄から取り出したものは、一枚の書類だった。大学を示す、イチョウのマークのある
封筒から取り出されたそれには、大きく“合格証書”という文字が書かれていた。

「誰よりも早く、君に見せたくて。まだ、父さんや母さんにも見せてないんだよ。」
『この、親不孝者め。それは筋違いというものではないか。』
「ごめんごめん。・・・本当はさ、二ヶ月会えなかったから寂しいってのもあってね。」
『そうか。・・・合格したのだな。まずは、芽出度い。』
「ありがとう、千尋。君にそう言ってもらえて、本当に嬉しいよ。」
『芽出度い・・・実に、芽出度いことだな。』

はにかんだ笑みを浮かべる陽太。何事か感慨深そうに頷いていた千尋が、その視線を静かに
陽太へと向けた。

『これで、我が心も決まった。』
「え? 何の話?」
『陽太よ。大事な話がある。』

改まった様子で、筐体の上に正座をする千尋。その様子に気圧されたように、陽太もパソコンの前の
椅子に腰を下ろすと、両手を膝の上に置いた。

『お主に、頼みがある。聞いてくれるか?』
「どうしたのさ、改まって。・・・うん、頼みって何?」
『大学合格の祝いにと、御両親に新しいパソコンを買ってくれるよう頼むのだ。恐らく、二つ返事で
叶えられるであろう。』
「ちょっ・・・ちょっと待ってよ千尋! 別に僕は、他のパソコンなんて―――――」
『実のところ、我はもう永くない。』

自身の意外な言葉に慌てる陽太に向かって、千尋が静かに告げる。

『お主も、気付いておっただろう。・・・今年に入ってからは、起動すら意に任せぬ状態が続いておった。
もう、限界なのではないかとな。』
「そっ、そりゃ確かにそう思ってたさ。受験が終わって、落ち着いたら修理にも出そうと思ってた。
・・・でっ、でもさ! 今は、君はちゃんとこうして―――――」
『分からぬか。・・・お主と別れるときは、きちんと言葉を交わしたかった。この二月、その為だけに力を
蓄えてきたのだ。』
「そんな! ・・・そう、そうだよ! 大体、どうしてこんなことになったのさ!」
『簡単なことだ。寿命が、来たのだよ。』

生きとし生けるもの、その全てには“寿命”が等しく存在する。そしてそれは、故障を“死”として捉えるの
ならば、パソコンを初めとする電子機器についても決して例外ではないのだ。

「でも、それなら・・・修理をすれば、きっと!」
『無駄なことだ。老衰から人を救うことは出来ぬ。それと同じ―――――」
「やってみなけりゃ、分からないじゃないか!」

そう言いながら、椅子から立ち上がった陽太はパソコン本体の電源ボタンを押した。
こうして話している間にも、残り少ない千尋の“命”は刻一刻と削られていく。それならば、まだ余力の
あるうちに修理に出すべきだと思ったからだ。

「!?」

しかし、いつもならばすぐに落ちるはずの電源は、この日に限っては一向に落ちる気配を見せ
なかった。ハッとした様子で自らに目を向けた陽太に、千尋は静かに頷いてみせた。

「千尋・・・まさか、君は!?」
『その通りだ。これが我の、最初で最後の我侭だと思って欲しい。』
「僕の・・・主人の言うことが、聞けないってのか!?」
『・・・そうだ。今だけは、聞けぬ。』
「でも、どうして・・・!」
『ここで一度電源が落ちてしまえば、もう我が目覚めることはあるまい。最期の時を、今しばらくお主と
共に過ごさせて欲しいのだ。』

静かに、しかしきっぱりと。千尋にそう告げられて、陽太は力なく椅子に座り込んだ。そんな陽太に
向かって、千尋がゆっくりと語りかける。

『この家に来て、お主と出会ってからもう六年か。・・・思えば、色々なことがあったな。』
「・・・・・・。」
『機械の身である我が、このようなことを口にするのは可笑しいやも知れぬが・・・。・・・我は、幸せ
だったのだろうと思う。我が主が、お主で良かったと・・・心より思っておるのだ、陽太よ。』
「千尋は、機械なんかじゃない! 少なくとも、僕にとっては―――――!!」

大声で、相手の言葉を遮る。迸るように言った陽太は、ここで言葉を詰まらせた。

(そうだ! 僕にとって、君は―――――)

この瞬間、不意に気付いてしまったのだ。千尋は自分にとって、それほどの存在だった。この六年間を
共に過ごした、誰よりも身近な友人であり、家族であり・・・そして、もしかすると恋人だった存在。そして
自分は今、そんな相手のと永遠の別離を迎えようとしているのだ。
もっと早く、気付いていれば。他に何か、できることがあったのではないか。・・・不意に湧き上がった
後悔の念に、陽太は項垂れると肩を震わせた。

『かたじけない。その言葉を聞くことができて、これで我も満足して逝くことができるというもの。』
「千尋・・・。」
『陽太よ、よく聞くが良い。幸いにも、ハードディスクの中身は無事だ。それを新たなパソコンに移せば、
直ぐにも今と同じ生活が送れるようになろう。・・・新たなパソコンに宿る者とも、仲良う過ごすのだぞ?』
「新しいパソコンなんて、欲しくないッ! 僕は、君が―――――」
『無体を申すな、陽太。これは、仕方のないことなのだ。・・・どうか、分かってくれ。』

困ったように、そして宥めるように微笑んだ千尋が、ふと虚空を仰ぎ見た。その澄み切った瞳には、深く
静かな諦念の色があった。

『・・・どうやら、刻限が来たようだ。』
「刻限って・・・そんな!!」
『さらばだ、陽太。お主と過ごした日々は、忘れぬ。』
「待って! 千尋!!」

千尋が初めて見せた、翳りのない笑顔。手を差し伸べた陽太の目の前で、それはふっと掻き消えた。

「千尋!! イヤだ!! 戻ってきて、千尋!!」

動作音が消え、部屋に死んだような静けさが戻ってくる。既にインジケーターのランプが消えた筐体を
抱き締めるようにして、陽太はぼろぼろと涙を零しながら相手の名前を呼んだ。

「千尋―――――!!」

あれほど熱かった筐体が、少しずつ冷えていく。それはまるで、死んだ人間の体から徐々に体温が
失われていくようだった。


ココロの在処(3)へ