泣いて泣いて泣いて  1     

泣いて泣いて泣いて


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目覚めたのは、自分のベッドだった。
見慣れた自室の天井。しばらくの間、木竜のリアはそれをぼんやりと眺めていた。
半開きになったカーテンの間から射し込む陽の光は、既に色が変わりかけていた。ここ十年以上、これほどの寝坊をした記憶が、リアにはなかった。
何度か瞬きをしたところで、瞼が腫れぼったいことに気付く。そう言えば、何となく熱っぽい気もする。もしや、自分は体調を崩して寝込んでいたのだろうか。
ここまで考えたところで、リアは小さく首を傾げた。布団の下、手に触れた服がいつもの部屋着だったからだ。具合が悪くて休んでいたのなら、せめて寝間着くらいは着ていても良さそうなものだ。
とにかく、起きなくては。今、この家の家事をこなしているのは自分だ。その自分がこんな時間まで寝ていたのだ。せめて、食事くらいはすぐに用意しなくては―――――。
朦朧とした意識のまま、ゆっくりとベッドの上に身を起こす。ここでリアは、再び首を傾げた。
食事の支度。それは、一体誰のためのものか。
しんと静まり返った家の中には、人の気配は感じられない。自分はこの家に、一人暮らしをしていた―――――?
いや、違う。ほんの少し前まで、この家には自分以外の“誰か”がいた。それは、自分にとってとても大切な相手だったはずだが、その顔・・・その名前がどうしても出てこない。
一向にはっきりしない記憶に、動悸が高まる。ベッドから出たリアは、傍らにきちんと揃えて置かれていた愛用のスリッパを履くと、自室を出て階下へと向かった。
厨房の入り口で立ち止まる。しばらくの間、ぼんやりと辺りを見回していたリアは、微かに頷いた。
そうだ。ほんの数日前まで、自分はここで忙しく働いていた。それは、この家に多くの人が来ていたからだ。
この家で共に育った、兄弟とも言える木竜たち。木竜の里の族長や里長、そして近くの村に住む、顔見知りの幻獣人たち。個人的に親しい間柄の暗竜トトと、竜王の竜術士チャオ。
彼らは、何のためにこの家にいたのだろうか。
自分に向けられる表情は、一様に労わりの籠もったものだった。しかし、一体それは何故だったのか。
ふらふらと、食堂へと入る。
何気なく、目をやった食卓。その上に置かれていたマグカップは、二つだった。この浅葱色のカップを使っていたのは、誰だっただろうか。
思わずカップを手に取ったとき、その陰にあったジャムの瓶が目に留まる。

(アプリコット―――――)

リア自身は、ほろ苦さの残るマーマレードが一番の好みだった。それほど好みではない、アプリコットジャムの瓶がここに置かれていたのは、何故なのだろうか。
じっと瓶を見つめるリア。その眼が、不意に大きく見開かれる。



『流石は、リアの作ったジャムだな。』



取り落としたマグカップが、床で二つに割れる。両手で頭を抱えたリアの脳裏に、ここ数日の記憶が奔流のように押し寄せる。

(トレベス―――――!!)

そうだ。トレベスは、死んだのだ。・・・それも、自分が作った毒を呷って、笑顔で死んでいったのだ。
葬儀は、兄弟竜たちとトトが、抜け殻のようになった自分に代わって取り仕切ってくれた。何も考えなくて良いように、厨房での作業に没頭できるようにしてくれたのだ。
最後の弔問客を送り出し、自分はそのままベッドに倒れ込んだ。それが、昨日の午後のことだ。自分はその後、丸一日近く意識を失っていたというのか。

「うぅ・・・うぐッ・・・!」

たちまちのうちに、涙が溢れてくる。こみ上げる嗚咽を抑えようともせず、リアはそのまま木竜術士の家を飛び出した。


  *


気付いたときには、中央湖の畔に立っていた。
沈みかけた太陽の光が、湖面にキラキラと反射して眩しい。しかし、それを目にしても何の感慨も湧いてこない。
頭の中を占める思いは、たった一つだった。今すぐ、トレベスに会いたい。会って、その一生をかけて彼と添い遂げたい。トレベスが既に死後の世界にいると言うのなら、自分もそこに行けばいいだけのことだ。
再び歩き始めたリアは、やがてごつごつした岩場に差し掛かった。水草の生い茂る遠浅の岸辺が続く中央湖においてこうした地形は珍しく、付近は釣りの名所として知られていた。
岩場の中央に聳え立つ岩塊の高さはおよそ三十リンク(約五・八メートル)はあり、その直下は深い淵になっているのだという。付近の腕白な幻獣人の子供たちが、夏になるとその頂上から飛び込んで“度胸試し”をするのだと、かつてリアは聞いたことがあった。
躊躇うことなく頂上へと攀じ登ったリアは、黒々とした淵を覗き込んだ。
普段なら恐怖しか感じなかったであろう、暗い水面。しかし、このときのリアの眼には、それは死後の世界への入り口のように映ったのだった。

(待ってて、トレベス・・・今行くわ―――――)

泣き笑いの表情のまま、リアは迷うことなく身を投げた。まさにその身体が水面に叩き付けられると見えた瞬間、水面がぐにゃりとたわみ、トランポリンのようにその衝撃を吸収する。

「なん・・・で―――――」
「この、戯け者がッ!!」

呆然とした様子で、水面の上に座り込む格好になったリアの頬が、容赦なく平手打ちされた。いつの間にか現れた中央湖の守護精霊、水精ライナリュートがリアを睨み付けると、その両肩を掴むようにして大声を出す。

「一体、何を考えておるのだお主は!! いきなり水に身を投げるなど、正気か!?」
「わ・・・わた、し―――――」
「そのようなことをして、トレベスが喜ぶとでも思ったか!?」
「―――――ッ!!」

リアの肩が、びくりと震える。
そうだ。遺言の中で、確かに自分はトレベスに、後を追うことのないよう念を押されている。そして、新たな相手と幸せになることを、期待されてもいた。
しかし、この荒れ狂う気持ちを、どうしたら良いのだろうか。時が経ち、自分がトレベスのことを忘れるまで、待たなければならないということだろうか。

(嫌だよ・・・トレベス・・・。あたし・・・あなたを忘れて、幸せになんか・・・なれないよ・・・)

両眼を固く閉じたリアの頬を、涙の粒が伝わっていく。その様子を目の前にしたライナリュートが、小さく溜息をつくとその両手をリアの肩から離した。

「忘れよとは言わぬ。・・・だが、竜と術士との別れは避け得ぬ。それは、分かっておろう。」
「・・・・・・。」
「決して、早まるでない。辛くなったら、またここを訪れるのだ。良いな?」
「・・・・・・。」
「今日のところは、ひとまず家に戻るのだな。・・・立てるか?」

頷いたリアが、のろのろと腰を上げる。しかし、その瞳にはまったく生気が感じられないままだ。
ライナリュートに付き添われ、湖岸に上がるリア。ゆっくりと小さくなっていくその後姿を、ライナリュートは不安そうな顔で見送ったのだった。


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