泣いて泣いて泣いて    2   

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小さな足音が、聞こえた気がした。
ゆっくりと、意識が戻ってくる。うっすらと眼を開けたリアは、しばらくの間自室の壁を眺めていた。
今は、一体いつだろう。窓から射し込む光は、前回と違い太く短い帯となっていた。ということは、また日が変わったのか。
前回目覚めたときは・・・そうだ、トレベスがいないことに気付き、怖くなって家を飛び出したのだ。その後、中央湖に行ったような気がするが、それからの記憶ははっきりしない。こうして無事に家に戻り、自分のベッドに入っていることが奇跡のような気がする。

(トレベス・・・)

最愛の術士のことを思い出すと、じわりと涙が出てきた。
この数日、まともに何かを口にした記憶がリアにはなかった。それでも、涙だけはこうして後から後から溢れてくるのだ。一体どこから、これだけの水分が出てくるのだろう・・・と思うと、何やら可笑しさが込み上げる。ゆっくりと上体を起こし、リアは眼に涙を溜めたままふっと微笑んだ。
思えば、この家はいつも賑やかだった。朝から晩まで、術士であるトレベスと自分たち木竜の悪戯合戦が繰り広げられていたからだ。そして、その全てをトレベスは華麗に避け、時には逆襲によって自分たちを痛い目に遭わせた。・・・そんな生活が、ほんの少し前まで続いていたのが、嘘のようだった。

(・・・・・・!)

ここまで考えたリアは、ここでふと耳をそばだてた。気のせいだと思っていた足音が、実際に聞こえたからだ。
しばらくして、部屋の入り口に小さな人影が姿を現した。
身長は七リンク(約百三十五センチメートル)足らず。肩までのセミロングの髪は、木竜である自分より幾分色が濃い深緑だった。着ている服は、木竜族特有のデザインを採り入れたワンピースにフリルの付いた白いエプロン、そして頭部にはこれまた白いフリルの付いたカチューシャといった組み合わせだった。一見木竜とよく似た出で立ちだが、そのカチューシャの両端に覗く木の葉の存在から、その正体は明らかだった。
雑巾を手に部屋に入ってきた相手が、ベッドの上に起き上がっていたリアに気付き、目を丸くする。

「あ・・・。目が、さめたんですね。」
「ええ。・・・あなたは、誰?」
「あ、あのッ! ごあいさつがおくれまして、もうしわけありません、リアさま! わたし、この家の中に生えている木に宿っている精霊で、カルロッタともうします!」
「そうなの。・・・それで、あなたはここで何をしているの?」
「はい! リアさまがお休みの間、この家の片付けをさせていただいておりました。これからは、リアさまの身の回りのお世話をさせていただければ、と思っております。」

深くお辞儀をした相手―――――カルロッタと名乗った木の精霊が、生真面目な調子で言う。どうして・・・と考えかけたとき、ふと閃くものがあった。

「カルロッタ、でいいのよね。あなた、もしかしてトレベスに―――――」
「はい! トレベスさまから、リアさまとこの家のことをたのまれました。この服は、そのときに作っていただいたものです。」

嬉しそうに言ったカルロッタが、エプロンドレスの裾を摘み上げる仕草をした。その様子を眺めていたリアは、小さく頷いた。
連日人事不省の状態でベッドに倒れ込んだにも拘らず、目覚めたときには自分にきちんと布団がかけられていた理由。そして、ベッドの脇に愛用のスリッパが揃えて置かれていた理由。それらのちょっとした疑問の謎が解けたからだ。

「起きられますか、リアさま。」
「ええ。・・・ああ、大丈夫。自分で歩けるから。」
「あ、あのッ、大変失礼しました!」
「・・・そんなに、畏まらなくて大丈夫よ。」

脇を支えようとしたカルロッタを柔らかく押し止め、ベッドから立ち上がったリアはゆっくりと階段を下りていった。その後に、心配そうな様子のカルロッタが続く。

「今、お茶をおいれしますね。」
「うん。ありがとう。」

食堂の椅子に腰を下ろし、忙しそうに立ち働くカルロッタの後姿を眺めていたリアは、微かな苦笑いを浮かべた。
どうやら、この木の精霊はとても気立てが良い子らしい。トレベスの頼みに対しては忠実な様子で、自分が命を絶とうとすれば、それこそその全身全霊をかけてそれを止めようとするだろう。・・・何より、こうして知り合ってしまった今、この子を一人置き去りにして死ぬことに対して、自分の中に既に抵抗する気持ちが生まれてしまっている。流石はトレベス、自身の補佐竜の性格は先刻お見通しなのだろう。

(敵わ、ないな・・・)

やがて、テーブルへと運ばれてきた紅茶によって、食堂には良い香りが漂った。おもむろにカップに口を付けたリアを、お盆を抱えたカルロッタが食い入るように見つめる。

「・・・あの、リアさま。お味は、いかがでしょうか?」
「・・・・・・。」
「リッ・・・リアさまッ!? いかがなさいましたか!?」
「いえ。・・・何でもないの。」

カップを置き、リアは思わず目頭に手をやった。

(トレベスの、味だ・・・)

木竜術士家で、最も紅茶を淹れるのが上手かったのは、術士であるトレベスだった。リア自身も、茶葉・淹れ方双方について様々な工夫を凝らしてみたものの、どうしてもトレベスの淹れる紅茶には敵わなかった。真面目に淹れ方を尋ねたこともあったが、その時は“秘伝だよ”の一言ではぐらかされてしまい、結局それを教えてもらえないまま、自分はトレベスと永遠の別れをすることになってしまった。・・・まさか、その味に再会できるとは思わなかった。
涙を拭い、おろおろした様子のカルロッタに向き直る。トレベスの死後初めて、翳りのない微笑を浮かべたリアは、相手に向かって頷いてみせた。

「ありがとう、カルロッタ。・・・とても、美味しいわよ。」
「よかった! これは、トレベスさまに教えていただいたんです! 喜んでいただけたようで、うれしいです!」
「そうだったの。・・・ねえ、カルロッタ。後で、淹れ方をあたしにも教えてくれない?」
「・・・もうしわけありません、リアさま。それだけは、ごかんべんを。」
「あら。駄目なの?」
「はい・・・。トレベスさまに、リアさまはいれ方をきいてくるだろうが、絶対に教えるなともうしつかっておりますので・・・。」
「まあ。」

心底申し訳なさそうに頭を下げるカルロッタ。その様子に、リアは思わず噴き出した。
もちろん、全て分かっていて尋ねたのだ。流石はトレベス、この辺りも抜かりがない。

(本当に、美味しい・・・)

久しぶりの飲み物は、身体の隅々に染み渡っていくようだった。
灰色だった世界に、色が戻ってきたような感覚。ここ数日の、自分の意識にかかっていた靄が綺麗に晴れたような爽快感を、リアは味わっていた。

「さてと。・・・美味しい紅茶を飲んだら、お腹が空いてきたんだけど。カルロッタ、あなた料理は無理よね?」
「はい・・・。それを教わる時間は、ありませんでしたし・・・。」
「そうだよね。・・・とりあえず、何かないか探すしかないか。」
「はい、リアさま。お手伝いします。」

消耗した今の状態で、一から料理に取り組むのは億劫だった。台所の周辺を探せば、何か腹の足しになるものの一つや二つは見付かるだろう。
リアの言葉にカルロッタが頷いたとき、玄関のドアがノックされる音が聞こえた。

「あら、誰かしら。」
「リアさま、わたしが―――――」
「・・・・・・。じゃあ、一緒に行きましょう。」

ずっとこの家にいた自分が、今日初めて顔を合わせたくらいなのだ。恐らく、このカルロッタという木の精霊のことを知っている相手は、ほぼいないと考えて間違いない。
訪ねた家で見知らぬ相手が玄関から顔を出せば、客の方も困惑するだろう。そう考えたリアは、手にしていたカップをソーサーに戻し、ゆっくりと玄関へと向かった。

「はい・・・?」
「ああ、良かった。リアさん、あんた起き上がれるようになったんだね。」

玄関のドアを開けたところに立っていたのは、バスケットを片手にした恰幅の良いニアキス族の女性だった。怪訝そうな様子のリアに向かって、相手がにっこりと笑う。

「あの、あなたは・・・?」
「そうだよね。いきなり訪ねてきても、誰だか分からないよねえ。・・・あたしの名前はカルネ。どうだい、この名前に覚えはないかい?」
「カルネ、さん・・・? ・・・もしかして、ガトーさんの?」
「そうそう。あの時は、あたしの祖父が本当にお世話になってね。」

今から二十年以上前のことだ。ニアキス族の少女の願いにより、リアたちは引退した料理人のために野菜を作ったことがあった。料理人の名前はガトー、その孫娘がカルネだった。

「あの時作ってもらった野菜のお蔭で、祖父は食堂を再開して、幸せな晩年を送ることができたんだ。食堂は、あたしが継いだんだけど・・・今も、相変わらず村のみんなに来てもらえてる。それもこれもみんな、トレベスさんとリアさん・・・あんたたちのお蔭だよ。だから、どうしても恩返しをさせてもらいたくてね。」
「いえ、そんな・・・。」
「トレベスさんが亡くなって、しばらくは大変だろう。あたしにできることは料理くらいだからね、今日はお手軽に食べられそうなものをいくつか作ってきたよ。良かったら、食べておくれ。」
「そんな、悪いですよ。食堂だってあるのに―――――」
「この時間は、事情を話して休みにさせてもらってるのさ。食堂の“恩人”のためなんだから、当然じゃないか。それが不満だなんてやつは、こっちから願い下げだよ。」

がっはっは、と笑ったカルネが、手にしていたバスケットをリアに押し付ける。

「また、来させてもらうからね。早く元気になって、また村にも顔を見せておくれ。・・・そうそう、その時には野菜の仕入れの相談にも乗ってもらおうかねえ。」
「・・・ありがとうございます。これは、ありがたくいただきます。」
「ああ。何かあったら、遠慮なく言うんだよ。」

頭を下げたリアとカルロッタに手を振ると、カルネは村の方へと戻っていった。その後姿を見送っていたリアに、満面の笑顔になったカルロッタが声をかける。

「よかったですね、リアさま!」
「ええ。・・・じゃあ、あたしたちも食事にしましょうか。カルロッタ、悪いけどもう一度お茶を淹れてくれるかしら?」
「かしこまりました!」

勢いよく頷いたカルロッタが、台所へと小走りに戻っていく。玄関のドアを閉め、バスケットを抱えて食堂へと向かうリアは、幸せそうな微笑みを浮かべていたのだった。


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