眠れない  1     

眠れない


 −1−

「・・・・・・。」

寝返りを打った水竜のグレーシスは、溜息を一つつくとベッドの上に起き上がった。
枕元の時計に目をやる。時刻は、午前二時を回ったところだった。
ここは、本殿から程近い小さな屋敷。通称「別邸」と呼ばれるこの建物は、代々真竜族のまとめ役
たちに、その住居として利用されてきた。かく言うグレーシスも、約四十年前にこの役目に就いて
からは、ずっとここで暮らしている。
ベッドから出て、近くの窓の前に立つ。閉じられていたカーテンを開けると、グレーシスは束の間、
闇に沈んだ庭園の様子を眺めた。
季節は冬。今年の冬は例年になく厳しく、窓の外は一面の銀世界だった。これも、温暖な南大陸では
珍しいことだった。
どうやら、このままでは眠れそうにない。別邸に程近い、宮廷の一角から灯火が漏れているのを確認
したグレーシスは、外出の身支度をした。寝巻きの上に厚いガウンを羽織ると、静かに別邸の外へと
出る。

外は、満天の星空だった。月の姿はないが、雪明かりによって森や建物の輪郭がぼんやりと照らし
出されている。それを頼りにすれば、灯りなしでも外を歩くのは容易だった。
雪を踏みしめる音が、しんと静まり返った庭園に響く。歩きながら、グレーシスはぼんやりと物思いに
沈んでいた。
闇の中、目の前にちらつくのは、昼間の光景だった。
族長である自らの立会いの下、ユーニスは五番竜として預かった水竜を孵した。フェルムと名付け
られたその女の子は、二人に向かって満面の笑みを見せたのだ。
その刹那、胸を抉られたような気がした。・・・それ以来、瞼を閉じる度に甦るその笑顔に、グレーシス
は悩まされているのだった。

かつて、自分にも弟がいた。
もし、あのような悲劇が起こらなければ。卵から孵った弟は、自分に向かってあのように笑いかけて
くれたのだろうか。
生き別れてから、実に半世紀が過ぎ去った昨年のこと。人間族の来襲を告げるために、ロアノークの
宮殿を訪れた弟を目にしたグレーシスは、胸を衝かれる思いをした。
その幼い外見、舌足らずな喋り方は驚くほどであり、とても自分とは三年しか年が離れていないとは
思えなかった。
もちろん、弟には碌に話す相手もいなければ、術を手解きしてくれる同族もいなかったのだ。考えて
みれば、当然のことだった。
名前すら与えられず、里から追放された弟。
どれほどに、孤独だっただろう。その寂しさは、察するに余りある。

しかし、ならば何故。自分は、弟を救おうとしなかったのだろうか。
人化の術は、基本的に両親や近しい同族の者によって施されるのが普通である。それは、血の
繋がった兄である自分が行っても、特に不都合はなかったはずだ。
たとえ、共に暮らすことが叶わなかったとしても。
名を与え、時にその住処を訪れては、共に過ごす。読み書きや水竜術についても、その際に充分
教えられたはずだ。
たったそれだけのことが、自分にはどうしてできなかったのだろう。
父の怒りに触れるのが、怖かったのか。
それとも、族長の長子という社会的な体面を守るためか。

・・・いや、そもそも自分は、弟のことを愛してはいなかったのではないか。

他人との対立―――――父との葛藤を避けようとするあまり、かけがえのない家族であるはずの弟を
見捨ててしまった自分。父の、そして弟のことを本当に大切だと思っていたなら、するべきことがあった
はずだ。
そんな自分に、どれほどの価値があるのか。真竜族のまとめ役などを、務める資格が本当にあると
言えるのか。
堂々巡りの思考は、いつも同じ結論に辿り着く。・・・そんなもの、ありはしない。
しかし、そのことを知りつつもなお、何事もないような顔をして宮廷でのうのうと暮らしている自分が
いる。そんな自分のことが、グレーシスは何よりも嫌いだった。

(・・・・・・)

諦めたように小さく首を振り、グレーシスは僅かに足を速めた。
本殿の入り口は、すぐそこだった。


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