ふるさと  1     

ふるさと


 −1−

クレオは、森を貫く小道に立っていた。
見上げれば、遥か彼方には銀冠を被った山々。
抜けるような青い空。爽やかな風が森の中を吹き抜け、クレオの頬を撫でていく。
短い、輝くような季節。・・・故郷の夏は、そんな季節だった。

(ここは・・・)

何かに誘われるように、クレオは歩き始めた。懐かしい森の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、
迷うことなく小道を辿る。
五分ほど歩くと森は途切れ、小さな草原が広がる。目を上げたクレオは、そこに古ぼけた木製の門が
あるのを目にして小さく頷いた。

(やっぱり・・・)

冬の豪雪時にも埋もれることがないよう、村の名を記したその門の高さは人の背丈の三倍はあるの
だという。門にゆっくりと歩み寄ったクレオは、目の高さに幾筋かの傷跡があるのを見付け、それを
指先で撫でた。
そうだ。遠い昔、誕生日を迎えるたびに自分の背丈をここに刻んでもらったものだった。相手が決して
村の中に入ろうとしなかったため、年に一度二人が会うのはいつもここだったが・・・ではそれは、一体
誰だったのか。

「クレオ!」

懐かしい声に呼びかけられ、ぼんやりと物思いに沈んでいたクレオは後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、麦藁帽子を被った一人の少女だった。吹き抜けた風に帽子を軽く押さえた
少女は、手にしていた籠を抱え直しながらクレオに笑いかけた。
考えるより先に、口が動いていた。

「・・・リーザ?」
「どうしたの? こんなところに一人で。」
「え・・・あ。」
「また、考え事ね? ふふ、クレオったら・・・何かあると、いつもここでぼんやりしてるもんね!」
「・・・・・・。」

リーザ・・・クレオの隣の家に住む少女。そして、村でクレオのことを嫌っていない数少ない一人。
頭を掻いたクレオをいたずらっぽい表情で眺めていたリーザは、門をくぐってすたすたと歩き始めた。
慌ててその後を追うクレオ。

「あと一週間で、いよいよ誕生日よね。・・・お祝いの方は、任せといてね。」
「誕生日・・・? 誰の?」
「誰のって・・・。クレオ、あなたのに決まってるじゃない!」

もう日は高いというのに、村は静まり返っていた。クレオと並んで歩きながら、リーザが楽しそうに
口にする。

「これでクレオも大人の仲間入りなんだから。もっとしっかりしなきゃダメよ?」
「大人・・・って?」
「もう! だから、そういうところよ。ここじゃ、十八から“一人前”としてみなされるんだから・・・
忘れたの?」
「あ・・・ああ、そうだっけ。」

先程からさっぱり要を得ないクレオの返答に、首を傾げたリーザが立ち止まる。

「どうしたのクレオ、さっきから変よ。」
「そ・・・そう、かな。」
「熱でもあるんじゃないの?」

不意に、リーザがクレオの額に手を伸ばした。

「あ・・・」

温かい掌の感触。それは、もしかしたらこれは幻かも知れない・・・というクレオの不安を打ち消す
ものだった。

(やっぱり・・・本物なんだ)

「別に、大丈夫みたいだけど・・・変ね。」
「・・・・・・。」
「じゃあ、きっと疲れてるのね。うん、家に着いたらすぐにご飯にして・・・その後、一眠りするのよ?
いい?」
「家・・・?」

リーザの言葉に、クレオは思い出したように顔を上げた。
そこに建っていたのは、懐かしい自分の家。そして、家の前には見覚えのある人影があった。
まさか。そんなはずはない。心の中では必死に否定しながらも、笑顔で振り向いた相手に向かって、
クレオは震える声で呼びかけた。

「母・・・さん?」
「ああ、おかえり。」

懐かしい母の顔。最後にそれを見たのは、いつのことだったろうか。
村を飲み込んだ濁流。あのときは、ただ母を助けたいと夢中だった。そう、それがさらなる悲劇を
招くことになるとは思いもせずに・・・。
あの日の恐怖と絶望が、脳裏にまざまざと蘇る。目の色を変えたクレオは、母に駆け寄るとその腕を
取った。

「母さん! 急いでこの村を出よう!」
「クレオ・・・? 血相を変えて、どうしたんだい?」
「もうすぐ、ここに鉄砲水が来るんだ! ・・・村が、全部なくなっちゃうんだよ!!」
「鉄砲水?」
「リーザ、君もだよ! 三人で、どこかへ逃げよう!!」

畑仕事に出かけていた多くの村人たちと一緒に、行方不明になったリーザ。そして、家や家族を失った
村人たちの、やり場のない“怒り”の犠牲になった母。しかし、今ならまだ間に合う。

「逃げるって・・・一体どこへだい?」
「どこって・・・ここじゃなければ、どこだって!!」
「でもね。こんなにいい天気なのに、一体どこから鉄砲水が来るっていうんだい? 村にも別に変わった
様子はないんだし・・・」
「それは・・・」
「・・・・・・。夢でも、見たんじゃないのかい?」
「夢・・・」

母の言葉に、クレオは呆然とした。
では、今までのことは・・・全て夢だったというのか。
この地を追われ、遥かな南の地への逃避行。そして、かの地で出会った新しい家族―――――
あれは皆、自分の幻想でしかなかったというのだろうか。
確かに、自分の中には村を襲った鉄砲水の記憶が明確に残っている。あのときの阿鼻叫喚の
地獄絵図は、今でも昨日のように思い出すことができる。
しかし、母の言うように・・・今はそんな気配が微塵もないこともまた、事実なのだ。そして、勢い込んで
「逃げる」などと言ってみたものの、この村以外に行くあてはないのだった。
一転して今度は黙り込んだクレオの様子に首を傾げていた母は、リーザと顔を見合わせた。

「クレオ・・・この子はもう、どうしたんだろうね?」
「さっきから、どうも変なんです。ぼんやり考え事をしてるかと思うと、急に突拍子もないことを口に
したり・・・。」
「そうなのかい・・・?」
「さあ、昼ごはんにしましょ。きっと、お腹がすいてるから変なことを考えちゃうのよ。」
「違うよ! 僕は・・・」
「はいはい、わかったわかった。」

小さく手を振ったリーザは、手にしていた籠を抱えたままクレオの家へと入っていった。その後姿を
見送りながら、クレオはじっと考え込んだのだった。

(一体・・・どういうことなんだろう)


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