ふるさと    2   

 −2−

五日目の朝になった。
毎日、眠りに落ちる前には「もしかしてこれは夢で、目覚めれば元に戻っているのではないか」と思った
ものだったが・・・それはないままの一週間だった。
今では、記憶もすっかり曖昧になってしまっていた。ただ一つ、はっきりと思い出せる“南大陸”という
言葉。しかし、そもそも自分が辺境である南大陸に行くことなどあり得ないのだ。・・・やはり、母の
言った通りあれは夢だったのだろう。

「おはよう、母さん。今日も早いね。」

身支度を整え、階下へと下りたクレオは台所に立つ母に声をかけた。

「ああクレオ、おはよう。」
「いい匂い・・・。もうお腹空いてさ、すっかり目が覚めちゃったよ。」
「すぐ、朝ごはんにするからね。それで、早速で悪いんだけど・・・」
「あ、うん。すぐに行ってくる。」

毎朝の水汲みは、クレオの役割だった。
振り向いた母に向かって笑顔で頷いたクレオは、水汲み用の桶を抱えると勝手口に向かった。

「今日も雨だから、気を付けていくんだよ。」
「昨日よりはずいぶん小降りになったし、大丈夫だよ。・・・じゃ、行ってきます。」

三日前から降り始めた雨は、今朝になってやっと小降りになっていた。クレオが歩くたびに、ぱしゃ、
ぱしゃ・・・と水の跳ねる音が、静かな村の通りに響く。
村の輪郭をなぞるように、南北に流れる川。遥か北から流れ来るそれは、夏でも消えることない山々に
残る雪が融け出したものであり、一年中清らかで・・・そして冷たかった。その水を手に入れるため、
クレオは毎日村の北にある河原まで出かけていくのだった。
村は、今日も穏やかな朝を迎えていた。村人たちは、道行くクレオにちょっと目をやるだけであり、声を
かけてくる相手さえいない。

(・・・・・・)

五日前から、クレオが唯一感じていた“違和感”はこれだった。「化け物」と蔑まれ、石を投げられる
のが当たり前だった毎日。しかし、今の村にはそれがない。
今となっては、朧に思い出せるだけの南大陸での生活。もしあれが一夜の夢だったとしても・・・
村人たちが自分に対して向ける、憎悪の感情は消えないはずだった。

(あれ・・・?)

桶を抱えて川辺にやってきたクレオは、そこに小さな人影を見つけて首を傾げた。
年恰好は五歳くらいだろうか。夏空のような、鮮やかな水色の長い髪。そして、村では見慣れない
服装。河原に佇んだその女の子は、この雨の中・・・両手で顔を覆って一心にすすり泣いている様子
だった。

(どうしたのかな・・・)

何となく惹かれるものを感じたクレオは、桶を足元に置くと女の子の方へと歩み寄り、声をかけた。

「どうしたの? どこか・・・痛いのかい?」

相変わらず泣きじゃくりながら、女の子は首を振った。

「あたしのだいじな人が、ずっと目をさましてくれないの・・・」
「目を・・・覚まさない?」
「びょうきなんだって・・・。もう、五日になるのに・・・」
「そう、なんだ・・・。」

どうやら、予想以上に深刻な事態らしい。かと言って、医者でもない自分に何ができるというわけでも
なかった。

「・・・・・・。ねえ、その人の名前は―――――」

深く考えて訊こうとしたわけではなかった。
ここまで口にしたところで腕を掴まれたクレオは、後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、リーザ
だった。

「ああリーザ、おはよう・・・」
「そこから先へは、行ってはダメよ。」
「え・・・?」
「さあ、村へ戻りましょう。」

リーザは笑顔だったが、なぜかそれはひどく強張ったものだった。リーザに引きずられるようにして
歩きながら、クレオは顔を顰めるとその腕を振り解こうともがいた。

「ちょっ・・・リーザ! 痛いよ、放して・・・」
「せっかく、幸せに暮らせるようになったのに! それを、自分からダメにするつもり!?」
「リーザ・・・? 一体、何を言って・・・」
「あなたをここに呼ぶのに、ものすごく苦労したのよ! それを・・・竜なんかに、今更邪魔させるもん
ですか!!」
「竜・・・?」
「・・・ッ!」

リーザの何気ない一言に、忘れかけていた記憶が奔流のようにクレオの脳裏に押し寄せる。
南大陸・・・そこには、竜たちの住む地がある。三千五百年前に建国された、竜の王国フェスタ。
そして、中央山脈に造られた、第二の竜都コーセルテル。そうだ、自分は―――――
ぎくりと体を竦ませたリーザの様子に全てを悟ったクレオは、寂しげな笑みを浮かべた。

「そっか。・・・やっぱり、これは夢だったんだね。」
「・・・・・・。」
「どこか、おかしいとは思ってたんだ。君や母さんはともかく・・・村のみんなが優しくなるワケはない
もんね。」

唇を噛み締め、途中から俯いていたリーザは、ここで不意にクレオの腕を離した。少し意外そうな
面持ちのクレオが、リーザをじっと見つめる。

「・・・引き止めないのかい? 力ずくででも、って・・・」
「もう!」

泣き笑いの表情になったリーザが、腰に手を当てる。

「これは、誰の夢だと思ってるの! ・・・夢には、その人の性格が表れるものなのよ。」
「そっか。・・・そうだよね。」
「また、あたしたちのことも・・・時々は思い出してよね。寂しいから・・・」
「うん。・・・約束するよ。また、遊びにくるから。」
「ありがとう。・・・さあ、あの子と行って・・・」
「うん。」

にっこり笑ったリーザは、次の瞬間・・・その場からふっと掻き消えた。
確かに、故郷の記憶は辛いものばかりだった。この地を遠く離れてからも、ここでの日々は意識して
思い出さないようにしてきた気がする。
しかし同時に、数少ない幸せな思い出もまた、この地と共にあった。母、そしてリーザと過ごした歳月は
現実のものであり・・・それはいくら時が過ぎようと、変わることはないのだ。

(ごめん・・・)

俯いていたクレオは、ここで顔を上げた。足元で、自分のことをじっと見上げていた女の子に向かって
言う。

「最後に、ちょっと・・・寄り道していいかな。」
「よりみち?」
「うん。」

決然とした表情で頷いたクレオは、遠い山々に目をやった。低く垂れ込めた雨雲の中、灰色に
染まった万年雪はひどく陰惨な印象だった。

「もうすぐ・・・ここに鉄砲水がくる。」
「え・・・?」
「夢の中くらい・・・みんなを守りたいからね。今は、その力が僕にもあると思うから・・・」

言いながら、眼帯を解く。水の力を象徴する碧の瞳・・・今までは迫害の対象でしかなかったそれが、
今は何物にも代え難い“武器”となる。

「あたしも! あたしも、お手伝いする!」
「ありがとう。・・・それじゃ、行こう。」
「うん!」

にっこりと笑ったクレオは、拳を握り締めた女の子を抱き上げると、北に向かってゆっくりと歩き出した。


ふるさと(3)へ