水玉    2   

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季節は春から初夏に移り変わる頃。一年で、最も気持ちのよい季節である。
燦々と照り付ける明るい日差し。吹き抜ける爽やかな微風が、辺りの花の香りを運んでくる。絵に描いたような長閑な景色の中を、エレはゆっくりと歩いていった。
コーセルテルは、緩やかな擂鉢状の構造を持っていた。その底に当たる部分に位置するのが中央湖で、そこから南西に向かって流れ出す川を辿ると、やがて水竜術士の家に辿り着くことができる。

「おや・・・こりゃ、水竜術士さまじゃありませんか。」
「あら、皆さん。こんにちは。」
「聞きましたよ。今度の戦いで、大怪我をされたとか。・・・お体は、もうすっかりいいんですか?」
「ええ、お蔭さまでね。一月もベッドに縛られていたけど、あれって退屈なものね。」
「はっはっは。違いありませんや。」

コーセルテルでは、竜術士は有名人だ。こうして幻獣人の村の傍を通りかかる度に、必ずその住人たちに声をかけられることになる。日頃から、生活の必需品である“水”に関する相談事に乗っていることもあり、実際にエレが言葉を交わしたことのある相手も多い。

「では、私は家に帰りますから。何かあったら、また遠慮なく呼んでくださいね。」
「ありがとうございます! 道中お気をつけて!」
「さよなら、おねえちゃん!」
「はい、さようなら。」

集まってきた幻獣人たちに小さく手を振ると、エレは再び歩き出した。
木々の間から見え隠れしていた中央湖の湖面が、少しずつ大きくなってくる。その湖岸にエレが辿り着いたのは、すっかり日が高くなってからだった。

「ふう・・・」

午後の陽光を眩しく照り返す湖面を前に、エレは小さく息をついた。額からこめかみにかけて、じっとりと浮かんだ汗を拭う。その横顔には、疲労の色が濃い。
心配をかけまいと、カディオや木竜たちの手前強がっては見せたものの、正直そろそろ限界だった。
体が、まるで自分のものではないようだ。ただ立っているだけで、動悸が高まるのが分かる。踏み出す一歩一歩が、まるで両足に石を結び付けたかのように重い。・・・そして、普段であれば意識すらしない筈の、自分の剣。

(剣って・・・こんなに重かったかな)

束の間、エレは腰の剣に目をやった。
歩きながら、ずっと考えていたことがある。それは、剣を手渡されたとき、木竜の二人に伝えた言葉のことだった。

“私が剣を向けることで、相手も剣を向けてくる。”

そうだ。リリックが斬られたのは、元はと言えば自分が剣を持ち出したからではなかったか。そして、リリックはその右眼と右腕を失う重傷を負い、自分は結果的に五体満足で生き延びてしまっている。
自分が再び、剣を手にする資格は果たしてあるのか。

(・・・・・・)

「ほう、これは珍しい。天下の水竜術士殿ではないか。」
「・・・?」
「・・・ふむ、その様子だと無事回復したようだな。重畳、重畳。」

物思いに沈んでいたエレは、不意にかけられた涼やかな声に目を上げた。向けられた視線の先、岸辺から十五リンク(約三メートル)ほどの水面に立っていたのは、当代の中央湖の守護精霊である水精ライナリュートだった。
見かけは、まだ十二・三の少女と言った風である。しかし、彼女が中央湖の守護を果たすようになってから、既に四千年以上の時が経過していた。特徴ある堅い口調と、木竜もかくやという陰のある笑顔や悪戯好きの性格と相まって、一度会ったら忘れられない相手である。しかし当の本人は、他人の前に姿を現すことを意識して避けているのだと、いつかエレは耳にしたことがあった。
そのライナリュートが、水面をエレの方へと歩み寄ると、その顔を覗き込むようにして尋ねる。

「ところで、こんなところで一体何をしておるのだ?」
「あなたの言葉の通りよ。・・・怪我も良くなったから、家に帰るところなの。」
「そうであったか・・・。しかし、それにしては、顔色が悪いようだが?」
「久しぶりにこんなに歩いたから、少し疲れちゃって。一休みしたから、大丈夫よ。」
「それはいかんな。・・・うむ、そのような事情であれば止むを得まい。私が家まで送ることにしよう。」
「あら・・・怖いもの知らずの守護精霊様に送っていただけるなんて、光栄の至りね。」
「ふ・・・戯言を。さあ、来るがよい。」
「ええ。」

岸辺から水面に降り立ち、そのまま並んで歩く。しばらくして、半歩ほど前を行くライナリュートが、ちらりとエレの方を振り返った。

「話は聞いている。此度の戦では、大活躍だったそうではないか。・・・まあ、少々はしゃぎ過ぎたきらいもあったようだが。」
「ふふ・・・。まあ、そんなところかしら。」
「お主の補佐竜、リリックと申したか。あれは、残念なことをしたな。」
「そうね。・・・今から、どんな顔をして会えばいいのか、気が重くて。」
「埒もない。心からの笑顔で、抱きしめてやれば良い。・・・お主が悩んでいるように、あ奴も悩んでいるはずだ。」

ライナリュートの言葉に、一瞬驚きに目を見開いたエレは、やがてくすりと笑った。訝しげに眉を寄せた相手に向かって、小さく手を振りながら言う。

「・・・何か、変なことを申したか?」
「いいえ。いつも気紛れで悪戯好きの守護精霊様が、珍しくまともなことを言っているから・・・つい。」
「そのように、悪し様に申さずとも良かろうが。同じ水の力を操る者として、これでもお主に対する親愛の情は、他の者共よりも篤いつもりなのだが。」
「ふふ、ごめんなさい。」

唇を尖らせたライナリュートに、エレは素直に頭を下げた。

「それにしても、あなたに出会えてよかったわ。一人で帰れるなんて強がってはみたけど・・・寝たきりって、思ったより体力が衰えるものね。」
「さもあろう。木竜術士の家とお主の家は、中央湖を挟んで正反対の位置にあるからな。おまけに、湖の周囲はお世辞にも歩き易いとは言い難い。本調子ではないお主には、酷であろうな。」

ライナリュートの言葉の通りだった。中央湖の湖岸のほとんどは、水際まで草が生い茂る湿地になっている。道らしい道もなく、その中を掻き分けて進むには多大な労力が必要だった。

「しかしな、エレよ。それでは何故、中央湖の湖岸に出る道を選んだのだ? 南を回れば、多少距離は延びても歩き易い街道が通じておるだろうに。途中には他の竜術士の家もある。そこで休みながら進むという選択もあったのではないか?」
「・・・・・・。残念だけど、今はそうできない理由があるの。」
「ほう・・・?」
「・・・・・・。」

物問いたげな視線を向けるライナリュート。しかし、遠くを見る眼になったエレは口を結んだままだった。
あの戦いの際。当代の竜王の竜術士マシェルは、最後まで善意の対話路線を主張していた一人だった。リリックの怪我に対しても随分と責任を感じていた様子であり、また同化術の長時間の使用によって、戦いの終結と共に人事不詳に陥ったとも聞いている。そこに自分が姿を現わせば、どうなるだろうか。・・・恐らくまだ本調子ではない彼に、責任を感じさせ、気疲れをさせてしまうだけだろう。
また、地竜術士の家にはキールがいた。自分自身、竜術士になるまでは姿を見せるなと申し渡した以上、今顔を合わせる気にはなれなかった。

「・・・まあ、お主にはお主の事情があろうな。ならば、無理には訊くまい。」
「・・・ごめんなさい。」
「しかし、こうして湖の上を歩いておると思い出すな。お主と、初めて出会ったときのこと。」
「え?」
「お主は、この中央湖に繋がる地下水脈からコーセルテルにやって来たのだぞ。・・・ここには長い私も、まさか地下水脈から人間が現れるとは思っておらなんだ。いやはや、あの時は魂消たものよ。」

コーセルテルに降る雨や雪だけでは、住民たちの貴重な水源である中央湖の水量はとてもではないが維持できない。悠久の昔から滾々と湧き続ける地下水によって、中央湖は変わらぬ姿を保ってきたのである。
湖の中央、その最深部に黒々と口を開けた地下水脈は、世界のあらゆる場所に通じていると言われている。無論、確かめ得た者はおらず真偽は闇の中だったが、その出入り口の番人として守護精霊が必要だったのだ。

「確かお主は、そのときのことを・・・覚えてはおらんそうだな。」
「ええ。国が落ち、逃避行の途中までは記憶があるんだけど・・・」
「まあ、これも水の力の加護の為せる業ということかな。普通の者であれば、恐らく生きてはおるまい。」

ライナリュートが頷きながらここまで言ったときだ。風に乗り、エレを呼ぶ声が微かに届いた。

「どうやら、迎えが来たようだな。では私は、ここで失礼するとしよう。」
「送ってくれてありがとう。お蔭で、思っていたよりずっと早く家に戻ることができそうよ。」
「何の、気にすることはない。・・・ではな。くれぐれも、体を労わるのだぞ?」
「ありがとう。」

小さく頭を下げ、湖面から岸辺へと上がる。目を上げたエレの瞳に映ったのは、湖岸を一散に駆け寄ってくる水竜たちの姿だった。

『エレー!!!』

自分の腕の中に飛び込んできた相手を、しっかりと抱き締める。顔を上げた水竜たちの頬は、一様に涙で濡れていた。

「おかえりなさい! 無事で・・・無事で、よかった・・・!」
「ただいま、クララ、ラティ、ティルク。・・・どうやら、すっかり心配をかけちゃったみたいね。ごめんなさい。」
「ううん!」

笑顔のエレの言葉に、クララが泣きじゃくりながらぶんぶんと首を振る。

「こうやって、無事に帰ってきてくれただけで・・・その、あたし・・・」
「そうだよ! エレ・・・もう、どこにも行かないで!」
「分かったわ。約束よ・・・あなたたちを置いて、一人で出て行ったりしないから。」
『うん!』

水竜たちの涙を拭い、エレは立ち上がった。ラティとティルクの手を取り、クララの先導でゆっくりと歩き出す。ここから水竜術士の家までは、一時間弱の道のりだった。

「そうだ。リリックは、家にいるの?」
「うん。マリエルさんと一緒に、エレが帰ってくるのを待ってるって。」
「そう・・・。マリエルが、来てくれてるのね。」
「うん! あれから、ずーっと一緒にいてくれて、色々と手伝ってくれてるんだ!」

コーセルテルの少女竜たちの中で、最もリリックに対して好意を持っていたのは、光竜のマリエルだった。そのことを知っていたエレは、家を出る際傍にいたミリュウに、マリエルに来てくれるようにとの伝言を頼んだのだった。
リリックが回復したならば、その助けとなってもらうために。そして、もしもの際にはリリックの最期を看取ってもらうために。

(・・・・・・)

本当は、あれは自分の遺言になるはずだった。聞いていたリリックにも、それは分かっていただろう。・・・今さら、どんな顔をして会えばいいのだろうか。

「リリック、マリエル、ただいま!」
「ほら、エレだよ! 無事に帰ってきたんだ!」

懐かしい気配。俯いていたエレは、立ち止まるとそっと目を上げ・・・そしてそのまま絶句した。

「リリッ・・・ク?」
「おかえり、エレ。待ってたよ。」

光竜マリエルに付き添われ、戸口に立っていたのはリリックであって、リリックではなかった。
失った右眼を覆う眼帯、風にそよぐ上着の右袖が痛々しい。しかし、エレの驚きはそうした服装ではなく、リリック自身の姿形に対して向けられたものだった。
背は、記憶にあるものより優に一リンク(約二十センチ)以上は伸びている。その声はエレの記憶にある若々しい少年のものではなく、既に立派な大人のそれだった。エレを迎えるその所作も、成熟した落ち着きのあるものだ。
向けられたエレの視線に、その言わんとすることが分かったのだろう。照れ臭そうに笑ったリリックが、傍らのマリエルとちょっと顔を見合わせた。

「そうなんだ。必死に回復しよう、エレのために・・・って思っていたらね。いつの間にか、こんなになっちゃったんだ。」
「そう、だったの。・・・心配かけて、ごめんなさいね。」
「いや、いいんだ。・・・言ったでしょ? エレが無事なら、それだけでいいって・・・さ。」
「・・・・・・。」

それは、あの日・・・単身敵の許へと出ていこうとしていたエレに向かって、ベッドの中のリリックが最後に口にした言葉だった。

(リリック・・・)

たちまちのうちに、視界がぼやけていく。思わずその両手を口に当てたエレに向かって、微笑んだリリックが小さく手招きをした。

「さあ、入って。これからお昼なんだ。」
「ええ。・・・もちろんよ。」
「エレが帰ってくるって聞いてね、今日は朝から腕によりをかけたんだ。きっと、料理の腕は落ちてないって証明して見せるからね。」

周囲を取り巻く水竜たちに押されるようにして、揃って家に入る。
それは、水竜術士家のありふれた・・・しかし、この上なく貴重な風景だった。


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