日記      3 

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もう、夜も更けている。
キールは、自室で机に向かっていた。目の前には、一冊の古びた手帳。ペンを片手にページを繰りながら、その日の出来事に思いを馳せる。
遠い昔、初めて字を教えられた際に、その練習にと勧められたのが、日記をつけることだった。以来十数年、キールは忠実にこの習慣を守り通してきた。それは、コーセルテルで生活するようになった今も変わらない。

(・・・!)

不意に、小さく部屋の扉がノックされた。手にしていたペンを机の上に置き、席を立ったキールは部屋の入口の方へと歩み寄ると、その扉を静かに開けた。
そこに立っていたのは、燭台を手にしたユイシィだった。ゆらめく蝋燭の炎に照らし出されたその表情は、いつもよりも険しく見える。

「夜分に申し訳ありません。もう、お休みでしたか?」
「いえ。・・・このような時間に、どうされました?」
「それは・・・その。」

微かに俯いたユイシィが、珍しく言い澱んだ。

「少し、あなたと話をしたいと思ったのですが・・・。構いませんか?」
「ええ、勿論です。」
「ありがとうございます。では、こちらへ。」

どうやら、余人には聞かせたくない類の話らしい。しかし、普段は自分を目の敵にし、会話すらままならない相手が、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。ユイシィの後に従って歩きながら、キールは心の中で首を傾げた。

「こちらです。」

地竜術士の家の二階には、東に面した広いバルコニーがある。およそ一部屋分の広さを持つそのバルコニーには、所狭しと花の鉢植えが置かれ、その中程には小さなテーブルセットが設えられていた。
向かい合う格好で、椅子に腰を下ろす。初めに口を開いたのは、キールの方だった。

「それで、ユイシィ殿。話とは?」
「・・・・・・。キールさん。あなたは、なぜコーセルテルに来たのですか?」
「!」

意外な問いかけだった。驚いた顔になったキールから視線を外し、ユイシィは少し早口で言った。

「誤解しないでください。私は、あなたのことを許したわけではありません。師匠を殺そうとしたあなたのことは今でも恨んでいますし、本当は今すぐにでもこの家から出ていってもらいたいと、本気で考えています。しかし、師匠はあなたを赦しました。ですから、私もそれに従うつもりです。・・・もしあなたが、本当に師匠の信頼に足る人であると、私が判断すればですが。」
「・・・・・・。」
「コーセルテルの住人は皆、あなた方がここに足を踏み入れた理由は、自らの私利私欲―――――竜を狩ることでその血肉を手にし、あるいは地位や名声を得るためだったのではないかと言っています。事実、長い間私もそのように考え、あなたには心を許さないようにしてきました。・・・しかし、本当にそうなのですか?」
「・・・・・・。」
「師匠は、あなたにはあなたの事情があったはずだと。あなたにも、譲れない“正義”があったはずだと、このように私に言いました。もしそうであれば、是非それを伺いたいのです。・・・毎日あなたを疑い、警戒しながら生活することに、私も疲れてしまいました。」
「“正義”・・・ですか。」

考える表情になったキールが、反芻するように小声で呟いた。

「・・・もし、それを聞いた上で。私がコーセルテルに・・・竜術士に相応しくないと判断された場合は、どうされますか?」
「その場合は、私の独断であなたをここから追放します。それが、コーセルテルのためになると思うからです。」
「・・・・・・。」

きっぱりと言い切ったユイシィが、正面からキールのことを見据えた。嘘を言っている眼ではない。
ややあって、キールは微笑んだ。小さく頷きながら、ゆっくりと言う。

「分かりました。お話ししましょう、私の全てを。・・・少々長い話になりますが、聞いていただけますか。」
「はい。」


  *


「私は、北大陸の西端にあるエクセールという国で生まれました。首都であるリグレス郊外の農家が、私の生家です。兄が四人に、姉が二人。私は七人兄弟の末っ子でした。貧しい農家で、それも子沢山です。いつも、腹を空かせていましたよ。兄弟とは、食べ物の奪い合いをする日々でした。末っ子の私は、兄たちの力に対抗するために、いつからか木の棒を持ち歩くようになりました。今考えると、これが私が手にした初めての“武器”ということになりますね。」

コーセルテルに来て、最も驚いたこと。それは、住民たちが実に平和に暮らしているということだった。それは、日々生きることが即ち争いであったキールにとって、眩しいものだった。
争いには、必ず原因がある。それは、“飢え”のような命に関わるものから、人の心に潜む“欲”まで実に様々なものだ。つまり、コーセルテルはそうしたものとは無縁の環境ということだ。
生きるために必要なものが、保証されるだけでいい。飢えや渇きの心配がなく、住む家があり、そして他人から奪われることもない。・・・それだけで、人々は穏やかな心で暮らせるようになるものなのだ。しかしこれは、簡単なようでいてとても難しいことだ。

「最初は自衛の手段だった棒術は、やがて私の唯一の楽しみとなっていきました。元々適性があったのか、成長するにつれ私に勝てる人間は周囲にいなくなり・・・こうして私は、“何をするか分からない乱暴者”として、周囲の人々に避けられるようになっていきました。両親さえ、私を疎んじるようになったのです。」
「・・・・・・。」
「転機が訪れたのは、私が十五歳のときです。収穫祭の余興として、領主の前での棒術による御前試合が行われることになりました。最年少で出場した私は、そこで決勝まで勝ち残り、領主と直接言葉を交わす機会に恵まれました。領主はもう年配の女性で、それは古くからの封建制度が残る故国では非常に珍しいことでした。どこを気に入られたのか、私は領主の館に引き取られることになったのです。」

恐らく、いい厄介払いになると思ったのだろう。別れの際、兄弟や両親の表情には、どこかホッとした様子が垣間見えていた。仮にも、血の繋がった家族なのである。今でも、あのときのやるせなさは昨日のことのように思い出せる。
以来、自分には故郷も家族もないのだと、思い定めて生きてきた。

「私に与えられた仕事は、領主の一人娘の身辺警護でした。無論、ろくな学問や礼儀作法などには縁のない庶民の、しかも乱暴者です。初めのうちは、朝から晩までそうしたものの勉強をさせられましたよ。まあ、お蔭でこうして人前でも恥ずかしくない立ち振る舞いを身に付けられたわけですが・・・正直、あれは私にとってかなりの苦痛でした。」

思わず苦笑するキール。その様子に、厳しかったユイシィの表情も僅かに和んだようだった。

「実際に仕事に就くようになってから、領主の一人娘とは親しくなりました。初めのうちは、私のことを怖がっていたようでしたが、何せ任務で四六時中傍にいるのです。次第に打ち解けて、様々なことを話してくれるようになりましたよ。明るい、太陽のような笑顔と、母親譲りの芯の強さとを兼ね備えた方でした。・・・いずれは領主を継ぐ身、この方を一生護り通すことが私の役目であろうと、心に決めたのもその頃です。」
「しかし、それでは・・・なぜ、あなたはその方を置き去りにして、危険なこの任務に志願したのですか。そうした命令を受けたのですか? それとも、やはり自身の功名心からですか?」
「どちらも違います。・・・私がここに来る直前に、二人は農民の反乱に遭い、磔にされてしまったからです。」
「!」
「その頃の北大陸は、数年来の気候不順が祟ってひどい不作続きでした。飢えに苦しむ農民が、食料を求めて館を襲撃したのです。」

領主は、先進的な考えの持ち主だった。農民の生活が困窮していることを知り、領内の改革によって、取り立てるべき年貢をぎりぎりまで減らす努力をしたのだ。農民の流亡が、やがて領地の衰退に繋がることを知っていたのだろう。
しかし、無知な農民には、そんな領主の思いは伝わらなかったようだ。日々の生活の苦しさを全て領主のせいにして、各地で叛乱を起こした。それが領主の城に及び、捕えられた二人がその命を落とすまで、僅か一週間もかからなかったのだ。
そうだ。二人は、農民たちの不満や不安、絶望といった負の感情の犠牲になったのだ。そして、自分が故郷を捨てる決心をしたのもあのときだった。

「二人を護ることのできなかった私は、深い絶望の中にいました。そこに現れたのが、調査隊のリーダーだった精霊術士でした。彼は、私にこう言いました。この気候不順は作られたものであり、それは竜と呼ばれる古の種族の手によるものだと。彼らは南大陸の奥深くに潜み、これは自分たちを滅ぼした人間を呪っての所業なのだとね。」
「そんな・・・」
「ええ。嘘八百もいいところですね。しかし、あのときの私にはその虚実を見分ける術がなかったのです。・・・その話を耳にした瞬間、私は南大陸に赴くことを決めていました。私の育ての親と愛する者を奪ったのは、間接的であるとはいえ、その“竜”であろうと思ったからです。こうして、私はここに来たのです。復讐の念に燃え、あなた方竜を本気で根絶やしにするつもりで。」
「そう、だったのですか・・・。」
「後は、ご存じの通りです。私は自身の信念・・・いえ、遣り場のない怒りの捌け口としてリリック殿を斬り、そして貴方の親代わりでもあるランバルス殿にも傷を負わせた。その事実は変わりませんし、それについて一切の言い訳をするつもりはありません。」
「・・・・・・。」
「今の話を聞いて、ユイシィ殿がどう判断されるかは分かりません。竜術士になることができないのは残念ですが、追放という処分も甘んじて受けましょう。ただ、一言だけ申し上げておきたいのは・・・私は決して、自身の卑小な欲のためにここに来たのではない、ということです。自分の人生を変えてくれた恩人・・・そして、愛する者を奪われた仇を取るために、ここに来たのです。私はそのことに、後悔はしていません。」

きっぱりと言い切るキール。しばらくの間、その瞳をじっと見つめていたユイシィが、やがて考える顔になるとテーブルの上に目を落とした。
季節は秋であり、周囲は虫の音でうるさいくらいだった。その中で、二人は黙って向かい合っていた。

(・・・・・・)

優に十分はそのままだっただろうか。再び口を開いたのは、キールの方だった。

「ユイシィ殿。今度は、私からあなたにお尋ねしたいことがあります。」
「私に・・・ですか?」
「はい。もし、私が追放処分を免れるのであれば・・・の話ですが。私に今一度、機会をいただけませんか。」
「・・・機会、ですか?」
「はい。」

頷いたキールが、ここで居住いを正した。熱の籠った眼でじっと相手のことを見つめ、一言ずつゆっくりと口にする。

「あなたの気持ちは、よく分かっています。育ての親を殺そうとした相手が、四六時中目の前にいるのは、さぞ辛いことでしょう。そのことについて、私は弁解をするつもりはありません。・・・しかし、私は地竜術士として、新たな地竜を護り育むことに残りの人生を捧げたいと思っています。それが、あなた方に対して私がすることのできる、最大の償いだと考えるからです。」
「・・・・・・。」
「私は、ここに誓います。決してあなた方を裏切らないこと。そして、再びこのコーセルテルに危機が迫った際には、命を賭してあなた方を護ること。・・・どうか、そのために私に力を貸してはいただけないでしょうか。」

言い終わり、頭を下げる。再び、そのまま時間が過ぎていった。
やがて、ユイシィが大きく溜息をついた。顔を上げたキールに向かって、小さく頷きながら言う。

「何と申し上げていいのか、分かりません。私も、今すぐに納得はできません。・・・しかし、あなたにも信ずべき“正義”が確かに存在した、ということは分かりました。そしてそれが恥ずべきものではない、ということも。」
「では・・・」
「ええ。・・・私も、あなたを受け入れるよう、努力してみようと思います。」
「ありがとう・・・ございます。」
「ただし、条件が二つあります。それをあなたが、受け入れてくれるならばです。」
「承りましょう。それは、一体・・・?」
「一つは、今の“誓い”を必ず守る、ということです。それに背いた場合、私は何があってもあなたを許しません。」
「無論のことです。して、もう一つは?」
「それは・・・」

ここで言葉を切ったユイシィは、次の瞬間ふっと微笑みを浮かべた。それは、キールが地竜術士の家で生活するようになってからの半年、ついぞ見たことのないものだった。

「私たちのを呼ぶときに、“殿”をつけないことです。・・・私たちがあなたを受け入れれば、あなたは我が家の家族になるのです。いつまでも他人行儀に“殿”をつけるというのは、いかがなものでしょうか。」
「ごもっともです。こちらも必ず守るとお約束しましょう・・・ユイシィさん。」
「・・・まあ、初めてならそんなものでしょうか。」

苦笑したユイシィが、席を立った。こちらも席を立ったキールに向かって、小さく頭を下げる。

「遅くまで、ありがとうございました。・・・やはり、あなたと話をして良かった。」
「こちらこそ。私も、これですっきりしました。」
「明日から、早速術の練習を始めましょう。手は抜きませんよ? 心して付いてきてください。」
「望むところです。」

ユイシィについて、家の中へと戻る。その後について歩くキールの表情は、晴ればれとしたものだった。
これが、コーセルテルに新しい“地竜術士見習い”が誕生した瞬間だった。


  *


真竜暦五〇四〇年 毒竜の月六日 晴  今日私は、生涯の新たな誓いを立てる。


はしがき

合同誌『コーセルテルの音楽会7』に寄稿した短編その3です。合同誌ではここまでの三編(『そばにいて』『水玉』『日記』)を一冊の「別冊」という形でまとめ、“SWEET SORROW”というタイトルをつけて付録としました。

『そばにいて』で登場したキールが、地竜術士として歩み始める経緯を書いてみました。文中に「正義がぶつかるときに争いが生じる」旨の記述がありますが、これは僕が小説を書くときに絶対に譲らないようにしていることです。主人公側から見て、いわゆる「敵」に当たる相手であっても、その行動には納得できる理由が必ずあるはず。それをきちんと書くことで、物語の深みは増すと思います。