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その人が初めて店に姿を見せたのは、夏の終わりのある雨の日だった。

(・・・!)

人の気配に、ショーウインドウに飾ってある細工物の手入れをしていた僕は、その手を止めて顔を
上げた。
店に入ってきた人は、この蒸し暑いのに全身を覆うコートを羽織っていた。フードを脱ぐと、そこから
水色の長い髪が零れ出る。
竜だ。
大きな耳と、二本の小さな角を目にした僕は、とっさにその言葉を頭の中に思い浮かべた。もちろん、
世界中から商人と客が集まるこのナーガでは、決して珍しい相手じゃない。

「いらっしゃいませ。」

僕の声に、店の中を見回していた相手はこちらに近付いてきた。

「ラインラント工房というのは・・・こちらで良いのかな?」
「あ、はい。どのようなご用件でしょう。」
「折り入ってお願いしたいものがあって、こちらを訪ねさせていただいた。クリステル先生にお会い
したいのだが・・・今はご在宅かな?」
「はい。少々お待ちいただけますか。」

工房は、店の奥にある。その入り口に立った僕は、壁を手で叩いた。

「親方・・・」
「なんだサザク。・・・見れば分かるだろう、今忙しい。」
「あの・・・お客さんが来てるんですが。親方に会いたいって。」

親方は、作業台から顔を上げようともしなかった。

「とりあえず、待たせておけ。夕方までには終わるだろうしな。」
「はあ・・・。」

親方は、よくこうやって客を試すような真似をする。初めての客が来た場合は特に、わざと待たせて
その反応を窺ったりするんだ。
もちろん、今日は実際に仕事があるんだから仕方ない。せめて、追い返せと言われなかっただけ
よかったと思おう。
店に戻った僕は、待っていた客に向かって頭を下げた。

「すみません、今親方は手が離せないみたいで・・・」
「ああ、無理もない。急に押しかけてきたのは、こちらなのだからな。」
「どうしますか? 夕方までには、手が空くと思うんですけど・・・」
「そうか。良ければ、ここで待たせてもらいたいのだが。」
「あ、はい。構いませんよ。」

相手は、特に気を悪くしたような様子も見せなかった。
ここラインラント工房は、貴金属や宝石を使った細工物で有名な店。その出来栄えは世界で一二を
争うとも言われているけど、残念ながら親方の偏屈ぶりも多分世界で一二を争っていると思う。その
せいで、別に殊更繁盛することもなく今に至っているんだ。
それでも、客の中には各国王家や大富豪が多い。得てして高慢になりがちなそういった客と、そうした
態度が大嫌いな親方との間でいざこざが起こることも少なくないけど・・・どうやらこの客にそういった
心配はないようだった。

「ちょっと、待っていてくださいね。」

一言断ってから台所に引っ込むと、とっておきの水を薬缶に入れて火にかける。沸いたお湯で緑茶を
淹れ、僕は食堂の椅子を小脇に抱えて客の許へ引き返した。

「はい、よかったらどうぞ。どうやら長くなりそうですし。」
「ああ、これはありがたい。ええと・・・」
「ああ、僕はサザクといいます。親方に弟子入りさせてもらって、もう六年になるんです。」
「私はトレント。・・・いいのか? クリステル先生の手伝いをしなくても。」
「親方は、僕が工房に入ることはまだ許してくれないんですよ。勝手に入ると、ひどく怒られます。」

椅子に腰を下ろした客・・・トレントさんは、僕とちょうどショーウインドウを挟んで向かい合う格好に
なった。
僕が淹れたお茶を口に含んだトレントさんが、ちょっと驚いた顔になる。

「・・・うまいな。このお茶は、淹れるのが難しいと聞くが・・・」
「そうですか? へへ、ありがとうございます。親方は、お茶にはうるさくて・・・何だかんだと言われて
いるうちに、こっちの腕の方が上がっちゃいました。」
「なるほど、それでか。」
「でも、このナーガは水には恵まれてなくて・・・。このお茶を淹れる水は、わざわざ海を越えて南大陸
から運ばれてきたものなんですよ。」
「それでは、さぞかし高くつくんだろうな。」
「ええ。そんじょそこらのお酒よりも値段が張るんです。でも、親方はこの水で淹れたお茶じゃないと
飲まないし・・・。徹夜もよくあるので、お茶は欠かせないんですよね。」
「ふーむ・・・。」

頷いたトレントさんは、手元のショーウインドウを覗き込んだ。

「君がいない間にざっと眺めたんだが・・・ここに並べてあるものは、売り物なのかな? 見たところ、
値札は付いていないようだが・・・」
「ああ・・・これは売り物じゃありませんよ。もっとも、値札をつけてもおいそれと買えるようなものでも
ないと思いますけど。」
「では・・・?」

トレントさんに向かって、僕は小さく肩を竦めてみせた。

「ここに並んでいるものは、みんな“曰く付き”のものなんです。」
「曰く付き?」
「はい。注文を受けて親方が細工物を作るわけですけど、代金はお客さんがそれを取りに来たときに、
お客さん自身に決めさせるんですよ。」
「ほう・・・客にな。」
「支払い方やその額は様々ですけど・・・それが親方の気に入らない場合は、でき上がったものを
渡さないんです。だからこうして、ここに並ぶものがどんどん増えちゃうってわけで。」
「それは、なかなか厳しいな。」
「ええ。金額が多過ぎても少な過ぎてもダメ。ここに来る人は大金持ちが多くて、『金さえあれば何とでも
なる』という考え方をする人が多いんです。・・・親方は、そういうのが一番嫌いなんです。」

僕の話を頷きながら聞いていたトレントさんは、ここで首を傾げた。

「しかしな。断られた客が、誰かを雇って店に押し入らせたり・・・ということはなかったのか?」
「もちろんありましたよ。でも、親方が何回かそれをギタンギタンにのしちゃったんで、噂が広まって
それ以後は特に何も。」
「のした? クリステル先生ご自身がか?」
「そうです。ああ見えても親方は、凄腕の拳闘家なんです。怒らせると怖いですよ。」
「・・・・・・。」

ぞっとしない表情を浮かべたトレントさんは、気を取り直したようにショーウィンドウに目をやった。

「ところで、ここに並べられているものを見ていて思ったのだが・・・。クリステル先生は、あまり金細工は
お好きではないようだな。無論その技術は素晴らしいと思うが、銀や水晶を使った・・・豪華というよりは
清楚という印象が強い作品が多いように感じるのだが。」
「あ、分かります? 親方も、いつもそんなことを言ってますよ。“豪華にするだけなら誰でもできる”って
ね。」
「ほう、そうなのか・・・。」
「でも、本当は銀じゃなくて白金を使いたいんですよ。ほら、銀細工は比較的傷みやすいんです。でも、
白金はそういうことはないし・・・普通の環境なら、それこそ半永久的にそのままの姿を保つことが
できるって、親方は言ってます。」
「半永久的に、か。」
「でも、白金はものすごい貴重品で・・・。金や銀を産出する鉱山は世界中にありますけど、白金は
イルベス地方でも出ないんです。遠く南大陸の南端で少し出るらしいんですが・・・精錬も大変ですし、
ここまで運ばれてくるものはほんの僅かです。いくらお金があっても品物自体がなくて。」
「なるほど。それでは、仕方ないか・・・。」

トレントさんは、少し考える仕草をしていた。そこへ、今日の仕事を終えた親方が工房から顔を出した。
目の下に隈を作り、肩をバキバキと鳴らすその様子は、どこからどう見ても「疲れている」という表現が
ぴったりだった。もちろん、一度作品に取り組み始めると、それがモノになるまで何日でも徹夜をするん
だから、それは仕方ない。


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