Dream of Dreams      3   

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街は既に、すっかり夕闇に沈んでいた。その中を、隆志は一心に車を走らせていた。ハンドルを強く
握り締めるその表情には、焦りの色が濃い。
やがて、車の窓ガラスを通して、遠雷のような音が響き始めた。この日に予定されていた、地元の
花火大会が始まったようだ。

(兄貴・・・無事でいてくれ―――――)

小さい頃から、隆志にとって明良は自慢の兄だった。抜群の頭脳の持ち主で、何をやっても敵わない
相手。やがて背丈が兄を超え、スポーツで負けることはなくなったが、兄に対する隆志の尊敬の念は
少しも揺らぐことはなかった。
両親に反対されながらも強引に進めた結婚も、兄だけは祝福してくれた。それが、自分を随分と救って
くれた気がする。・・・兄は、紛れもなく隆志の誇りだったのだ。
だからこそ、許せなかった。持病の悪化で再びの入院となった兄は、完全に生きる意志を失くして
いるように見えたからだ。自分が常に目標とし、尊敬している兄だからこそ、雄々しく生きていって
欲しかったのだ。
その苛立ちから、ついつい辛く当たってしまった部分もあった。しかしそれも、全ては兄に昔のような
“輝き”を取り戻してもらいたかったからだ。それなのに―――――

(頼む、間に合ってくれ―――――!!)

病院の正面玄関に車を乗り捨て、エレベーターへと駆ける。兄の病室は病棟の八階にあり、階段を
使って上がるには時間がかかりすぎる。じりじりしながらエレベーターが下りてくるのを待つ隆志の
脳裏に浮かんだのは、夕方に兄と交わした言葉だった。

『隆志。・・・母さんを、頼んだぞ。』
『何だよそれ。これだけ迷惑かけといて、今度は責任放棄か?』
『別に。言葉通りの意味さ。・・・頼めるのは、お前しかいないからな。』
『ああいいさ。好きにしろよ! 兄貴がいなくたって、別に困らねえからな!!』
『・・・・・・。そうか・・・。』

思わず言い返してしまった、あの言葉。そうだ・・・あの言葉で、兄は心を決めた可能性が高い。
今思えば、今日の兄はどこかおかしかった。沈んだ物憂げな調子は相変わらずだったが、その眼には
昔のような意思の光が宿っていた気がする。しかし、だとすれば―――――一体何が兄の身の上に
起こったというのだろうか。

「兄貴!!」
「・・・ああ、隆志か。」

蹴破るようにして、病室の扉を開ける。電気も点けず、暗闇の中に佇んでいた兄が振り向いた気配が
あった。
その刹那、背後の窓を通して、夜空に大輪の花が咲くのが見えた。その微かな光で、兄の傍らに
小さな人影があるのに隆志は気が付いた。もしかしてあれが、俗に言う“死神”という存在なの
だろうか。

「いい時に来たな。・・・お前には、今まで世話になった。」
「待てよ! おい、お前は誰だ!? 兄貴を・・・どこに連れて行くつもりだ!!」
「これは、あなたのお兄様が自ら望まれたこと。それを止めることは、どなたにもできません。」
「うるさい!!」

凛とした声。怯みかけた心を奮い立たせ、隆志は大声を出した。そうしないと、この場から兄がふっと
消えてしまいそうな気がしたからだ。

「兄貴!! これは、一体どういうことだよ!!」
「どうって・・・さっき、お前が言ったんじゃないか。僕の好きにしろってさ。」
「違う! そういう意味じゃない!! 俺は、本当は―――――」
「・・・ああ。もちろん、分かっているさ。」

暗闇の中、兄は笑ったようだった。

「けどさ。僕ももう、疲れたんだ。この先何の希望もないのにここに縛り付けられていることも・・・
何より、お前や母さんに苦労をかけながら生き延びていることにさ。・・・だから、自分の意思で
決めた。今日、僕はここから消えることにする。」
「兄貴!! 消えるって―――――」
「大丈夫、心配するな。僕は、死ぬわけじゃない。・・・違う世界で、新しい人生を歩むことにしたのさ。
だから、お前が悲しむ必要はない。笑って送り出してくれれば、それでいいんだよ。」
「んな、勝手なことを言うなよ!! 大体、母さんをどうするんだよ!?」
「だから、お前に頼んだ。母さんをよろしくってな。」

涙をぼろぼろと零しながら、必死に隆志は兄に食い下がった。闇の中、兄の言葉に宥めるような
響きが混じる。

「分かってくれ、隆志。入院した時点で、僕はもう・・・半分以上死んでいた。これ以上ここにいる
意味は、もうないのさ。」
「嫌だ! 兄貴の言うことなんて分からないね!! 大体、どこに行くにしても、せめて母さんに
一言くらい―――――」

「悪いが、時間が来た。・・・お前は幸せになれよ、隆志。」
「兄貴!! 待ってくれ!!」

暗闇に向かって隆志が手を差し伸べた瞬間、病室が目も眩む光に満たされた。

(―――――ッ!?)

思わず目を覆う隆志。ややあって、騒ぎを聞き付けた看護士たちが病室に駆け付けてきた。部屋の
電気が点けられ、ただ一人立ち尽くしていた隆志に向かって声がかけられる。

「一体・・・これは何の騒ぎなんです?」
「・・・・・・。」

閉じていた目を開く。・・・予想通り、既にそこには誰の姿もなかった。つい先程まで言葉を交わしていた
はずの兄、そして結局正体を知ることのできなかったもう一人は、忽然とその場から姿を消していたの
だった。

「あれ、長岡さんはどちらへ?」
「・・・・・・。」
「あの・・・ちょっと。」

しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた隆志は、やがて無言で踵を返すと病室を出ていった。
兄は、行ってしまった。そして、二度と戻ってくることはない。・・・何故かそのことが、はっきりと分かった
からだ。

(母さんには、何て言おう・・・)

涙で濡れた頬を拭う。歩きながら隆志が最初に思い浮かべたのは、年老いた母のことだった。
花火の音は、まだ続いている。


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