六花の誓い    2     

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「なあ、アリン・・・」
「はい?」

カディエの家では、趣味であることも手伝って食事の支度は専らアリンの担当だった。
お気に入りのエプロンをかけ、鼻歌交じりで台所に立っていたアリンは、不意にかけられた声に振り向いた。そこには、バスタオルに身を包んだカズが、少し困ったような顔で立っていた。

「お風呂、上がられたんですね。湯加減はいかがでした?」
「ああ、申し分なかった。だがな、その―――――」
「はい?」
「その・・・何だ。用意してもらっておいて気が引けるのだが、他にもう少しまともな服はなかったのか?」
「・・・あ!」

ここまで来て、ようやくカズの言わんとすることが分かったらしい。お玉を手にしたままだったアリンが、慌てた様子で小さく頭を下げる。

「すっ・・・すみません! この家には、女物の服しかなくて・・・。一番気にならなそうなものを、選んだつもりだったんですが・・・。」
「・・・なるほど。そのような事情であれば、致し方ないか。」
「こんなことなら、先にお洗濯を済ませてしまっておくべきでした。ティッキーさんがいれば、マックスさんに服を借りにいってもらうこともできたんですが―――――」
「いや。・・・気にしないでくれ。」

小さく肩を竦め、カズが居間の方へと戻っていく。赤い顔でその後ろ姿を見送っていたアリンは、ここで思い直したように手元の鍋に向き直ったのだった。

やがて日も落ち、二人きりの食事が始まった。
今日の夕食は、アリンお手製のシチューだった。寒いマガ森の夜を過ごすにはうってつけのメニューで、カディエ姉妹の評判も高いものだ。

「・・・・・・。」

一口ずつ、噛み締めるようにしてスプーンを口に運んでいたカズが、不意にその動きを止めた。深い溜息と共にスプーンを置き、目を閉じる。

「あの、どうされました? ・・・もしかして、お口に合わないとか・・・」
「そうではない。」

心配そうに尋ねるアリンに向かって、目を閉じたままのカズが小さく首を振った。

「温かい食事など、何年ぶりだろうかと思ってな。おまけに、この素晴らしい味わいだ。・・・アリンよ、お前に食事を作ってもらえる想われ人は、果報者だな。」
「ええっ! いえ、その、そんな・・・」
「・・・・・・。」

図星を指され、慌てふためくアリン。その様子をじっと見つめていたカズが、何を思ったのかここでふっと笑った。

「しかし、不思議だな・・・。」
「は・・・はい?」
「アリンよ。お前といると、いつも驚かされることばかりだ。・・・人は、このように考え振る舞うのかと、常に目を開かされる。・・・言い方としては妙だが、お前を見ていると、まるで・・・少しずつ人間に戻っていくような気がするのだ。」
「カズさん・・・。」

意味深な言葉に、複雑な表情でカズを見つめるアリン。テーブルに目を落としたカズが、ここで改まった様子で尋ねた。

「なあ、アリン。想い想われるとは、それほどに良いものか?」
「え?」
「私には、過去の記憶がない。生まれから育ちに至るまで、その一切がだ。・・・もし、私にも恋人がいたのならば・・・と、ふと気になってな。」
「カズさん・・・。あの、でも・・・私にはそういうことは、まだよく分かりませんし。」
「隠さずともよい。先程の反応を見ていればな・・・余程の鈍感でもなければ、お前が恋心を抱いていることなど、一目瞭然ではないか。」
「え・・・あの、その・・・。」
「ふ・・・。」

再びしどろもどろになったアリンが、手にしていたスプーンで手元の皿を掻きまわす。その微笑ましい様子を目にしたカズが小さく笑ったとき、玄関の方で少々くたびれた声がした。

「ただいまぁー。」
「お帰りなさい、カディエさん。今日も遅くまで、お疲れさまでした。」
「全くよ、もう。あんな下らない話を延々と・・・人の貴重な時間を無駄にしてるんだって、いい加減気付いてくれないものかしらねえ。」

これ幸いと席を立ったアリンが、いそいそと玄関の方へと向かう。対する口調からして、どうやら戻ってきたこの家の主は、いささかご機嫌斜めのようだ。

「そうねえ・・・全くあのジジババ共、少しは遠慮して欲しいわ。まるで自分たちが、パンヤ島の支配者みたいな顔をしちゃってさ・・・」
「そんな、カディエさん。あまり大声で言うと―――――」
「構わしないわよ、文句があるなら受けて立つわ。そうでしょ?」

しばしの沈黙。次いで、小さく首を傾げる気配。

「あらアリン、珍しいわね。一人で飲んでるの?」
「今日はですね、珍しいお客さまがいらしてるんです。それで、ちょっとだけ。」
「お客?」

アリンに伴なわれ、居間に入ってきたカディエが、立ち上がった人影を目にしてすっと表情を引き締めた。

「あら、あなたは・・・」
「久しいな、魔法使いよ。件の勝負以来か。」
「そうなるかしら。・・・しかし、これはどういう風の吹き回し? ここは、かつて魔王を封印した勇者のパートナーだった、魔法使いの家よ。その魔王の生まれ変わりという噂の、ルー族でも指折りの剣士が一人きりで訪れるなんて・・・少々酔狂が過ぎるんじゃないの?」
「ほう。既に調べはついている、ということか?」
「当然じゃない。パンヤ島を支配しようと企む危険人物は、誰であろうと野放しにはできないし。」
「なるほど。・・・しかし、ではどうする? その偉大な魔法で、私を封じるか?」
「ちょっ・・・カズさん!」

カズの挑戦的なセリフに、慌てた様子のアリンが口を挟む。しかし、しばらくの間カズのことをじっと見つめていたカディエは、ここで皮肉な笑みをちらりと浮かべただけだった。

「悪いけど、遠慮させてもらうわ。今日は、偏屈なジジババの相手でくたくたなの。またの機会にするわよ。」
「・・・・・・。」

どうやら、お互い害意がないことは最初から分かっていたらしい。胸を撫で下ろしているアリンに向かって、手近な椅子に腰を下ろしたカディエが言った。

「アリン、私にも一杯貰えるかしら。口直しがないと、眠れそうにないわ。」
「はい、どうぞ。カディエさんがお好きな、生ハムのオードブルも用意しておきました。」
「お、気が利くわね。」

出されたつまみを口に運びながら、グラスのワインを傾けるカディエ。その隣に座ったアリンに向かって、少々意地の悪い眼を向ける。

「それで、アリン。じゃあ早速、説明してもらえる? 奥手のはずのあなたが、私のいない間にどうやって、見事に男を引っ張り込むことができたの?」
「もう、カディエさんったら! ・・・カズさん、明後日の大会に出場されるそうなんですけど、この寒い中で野宿されると伺って。それで、私がお誘いしたんですよ。・・・いけませんでしたか?」
「いいえ、別に。ただ、意中の相手に告白一つできないあなたにしては、えらい大胆だと思ったから聞いただけ。」
「ちょっ・・・カディエさんッ! いい加減に―――――」
「・・・くくっ。」

小さく肩を竦めるカディエに、顔を赤くしたアリンが食ってかかる。黙って二人の遣り取りを聞いていたカズの唇から小さな笑いが漏れたのは、このときだった。

「・・・ちょっと。何がおかしいのよ。」

たちまち、唇を尖らせたカディエがカズを睨み付ける。素直に頭を下げたカズの瞳には、どこかいたずらっぽい光があった。

「いや、これは失礼した。・・・以前相対したときとは、雰囲気がまるで違っているのでな。そのようなやり取りもできる間柄とは、羨ましいものだ。」
「そりゃそうよ。パンヤ島を崩壊させる気満々の誰かさんの前じゃ、軽口を叩くわけにもいかなかったものね。」

手元のグラスを干したカディエが、ここで再び小さく肩を竦めた。空になったグラスを脇へと押しやると、テーブルに肘をついた格好で、カズの方へ向ってぐいと顔を突き出す。

「それで? あのときと比べて、随分と落ち着いたように見えるけど。その後のさすらいの旅で、何か見えてきたものがあったの?」
「・・・・・・。魔法使いよ。実はその件で、折り入ってお前に訊いてみたいことがあるのだが。」
「カディエよ。いつまでも“魔法使い”だなんて、失礼だと思わないの?」
「そうだな。・・・カディエよ、お前を当代一の魔法使いと見込んで尋ねたい。・・・やはり私は、魔王の生まれ変わりなのか?」

しばらくの間、じっとカズを見つめるカディエ。その瞳に込められた真剣な光に、隣で遣り取りを見守っていたアリンが息を呑む。

「これは、私の勘なんだけど。・・・恐らく、その通りよ。」
「・・・・・・。」
「あなたは、ルー族でしょ。ルー族はあまり他の種族との交流はないけど、私みたいな立場になれば、嫌でも知り合いはできる。・・・けれど、あなたは私の知っているどのルー族とも似ていない。持てる魔力が大き過ぎるし、その殺伐とした雰囲気・・・そうね、独特のオーラとでも言うべきかしら。それは、他のルー族には見られないものよ。」
「そう・・・か。」

自らを納得させるように、ゆっくりと頷くカズ。そんなカズに向かって、カディエが静かに言った。

「ねえ、カズ。今度は、私から一つ訊かせて。」
「何だ?」
「さっきの私の言葉が真実で、仮にあなたが魔王の生まれ変わりだったとするわね。・・・もし魔王としての復活を果たした場合、あなたはどうするつもりなの? また、この島を支配するために、私たち魔法使いや勇者を敵に回して戦うつもり?」
「・・・・・・。」

この意外な問いかけに、カズが驚いた顔になる。しばらくしてその頬に浮かべられたのは、意外にも穏やかな笑みだった。

「なるほど・・・そうなるのか。」
「ちょっと、ふざけてるの? 話をはぐらかさないで。」
「いや、済まん。魔王の生まれ変わりかなどとお前に尋ねておきながら、正直なところ・・・私はそこまで考えていなかったのでな、少々感心させられた。・・・お前の問いに答えよう。恐らく、そうはなるまい。」
「どうして、そう言えるのかしら?」
「愚問だな、カディエよ。・・・“王”とは何か。それを考えれば、自ずと答えは見えて来よう。」
「なるほど・・・ね。」

「王」。それは国を治め、民を導く者である。逆に言えば、民無き王は存在しない、ということになる。統べるべき魔界の民・・・魔族が事実上、既にこの地上から駆逐されてしまっている以上、その支配を目論む必要もないということなのだろう。

「でも、それなら。魔界に戻るつもりはないの? いつの日か、再び魔族を率いてこのパンヤ島に攻め入る、ってのはどう?」
「お前たち、魔法使いの施した封印を破ってか。それこそ、正面切った戦になってしまうではないか。・・・そんなものは、たとえ私が全能の魔王であってもご免被りたい。」
「ふふ・・・。まあ、そうよねえ。」
「私はもう、何も望まん。・・・自分が一体、何者なのか。それだけは、今でも知りたいと思っているが・・・他者を傷付けてまでそれを追い求めようという、焼け付くような思いは既にないのだ。そう、かつて・・・お前たちと戦ったときのようには、な。」
「・・・なるほどね。いやはや、あなたも成長したって訳か。」

カズの言葉に、片目を瞑ったカディエがおどけた様子でグラスを掲げた。

「いいわ。今夜は、大いに飲みましょう。偉大なる大魔王様に、乾杯!」


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