君見しや海を    2     

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一方。
偶然再会したティタン族の兄弟が自分の噂をしているとも知らず、クーはコース脇に造られた池の縁石に一人、ぽつねんと腰掛けていた。夕日に煌く水面を、一群れのアヒルがゆっくりと泳いでいく。

(やはり・・・先程は少し言い過ぎだったな。帰ったら、タンプーに謝らねば・・・)

自分でも、分かってはいたのだ。全ては自らの些細な拘りのためであり、タンプーの実に真っ当なアドバイスがありながら、強行の上にミスをしたのもまた自分自身だった。・・・少なくとも、あの苛立ちを向けるべき相手は、タンプーではなかったことは確かだ。

(・・・・・・)

よし、と一つ頷いて立ち上がる。逆光の中、振り向いたクーが土手に見慣れない人影を認めたのはこのときだった。

「お姉ちゃん、惜しかったね。」
「?」

そこにいたのは、車椅子に乗った一人のティタン族の少女だった。ただでも巨躯を誇るティタン族が、小さな車椅子にちょこんと収まっている様は、何となく滑稽な印象を与える。
薄い灰色の体毛に、左の耳に飾られた小さな桃色のリボン。黒く円らな瞳が、じっとクーのことを見つめている。

「・・・・・・。私に、何か用か?」
「わたし、ポコ。お姉ちゃんのキャディさんは、わたしのパパのお兄さん・・・つまり、わたしのおじさんなの。」
「タンプーがか。・・・では、それで試合を見に来ていたのか?」
「うん。」

ゆっくりとクーの隣までやってきたポコが、並んで池の水面に目を落とす。
時刻は、既に日没間近だった。昼間の暑さは徐々に収まり、かわって吹き始めた爽やかな風が、土手に佇む二人を包む。
しばらくして、ポコがぽつりと言った。

「うらやましいなぁ・・・。わたしも、一度クラブを握ってみたいな。」
「そう言えば、その車椅子。・・・どこか、悪いのか?」
「・・・・・・。」

小さく頷いた相手が、その左手をゆっくりと自らの胸に当てた。

「お医者さまの話だと、わたしは生まれつき心臓が弱いんだって。だから、ベッドから起きちゃだめなんだって。」
「・・・・・・。」
「でも、今日は、無理言ってつれてきてもらっちゃった。だって、せっかくのおじさんの晴れ舞台だったんだもん。」
「それは、済まなかったな。何せ私は、あの池ポチャで・・・お前の伯父に赤っ恥をかかせてしまったことになる。」
「ううん。そんなこと、全然思ってないよ。あんなにたくさんの選手がいたのに、三位ってすごい!」
「・・・・・・。」

目を輝かせたポコの手放しの賞賛に、クーは思わず苦笑いした。
全力を尽くし、心の底から納得した上での三位と、自らの犯した愚かなミスによって仕方なく手にすることになった三位では、自ずから全く意味が違う。その差は、実際に競技に参加し、その重圧を味わった者にしか本当に理解することはできないのだろう。
ふとここで、きまり悪そうにそっぽを向いていたクーに鼻を寄せた相手が、小さく首を傾げた。

「ねえ。・・・お姉ちゃんは、不思議な匂いがするね。」
「匂い?」
「うん。塩辛いような、変わった匂い。この近くでは、嗅いだことのない匂いよ。」
「ああ、それは潮の香りだな。私が生まれてからずっと過ごしてきた、海の匂いだ。」
「海・・・?」
「何だ、海も知らんのか? パンヤ島は海に囲まれているんだぞ、どうして今まで―――――」

不思議そうに首を傾げた相手に向かって、ここまで言ったクーは不意に口を噤んだ。このベンテュース地方がパンヤ島の中央に位置する丘陵地帯であり、海から最も遠くに位置する地域であることに、ふと思い当たったからだ。
恐らく、このポコという少女は、生まれてこの方ろくに部屋からも出たことがないのだろう。そうであれば、海について知らないという相手の言葉も頷ける。少なくとも、それで相手を責めるのは気の毒である。

「済まん。・・・悪いことを言った。」
「え? 何のこと?」
「いや、いいんだ。いいかポコ、海というものはな。このパンヤ島をぐるりと取り囲む、そうだな・・・物凄く大きな池みたいなものだと思えばいい。いいか、パンヤ島がすっぽりと入ってしまうほどの大きさだぞ。」
「ふええ・・・じゃあ、このベンテュースも?」
「もちろんだ。そして、見渡す限りに広がる海原は深い青に見え、その水は全てが塩辛い。波と言ってな、風がなくても岸には水が絶えることなく打ち寄せる。数多の海鳥に、イルカにクジラ、数限りない魚たち・・・多くの命を育み、我々に無限の恵みを与えてくれる存在。それが海だ。そんな場所で、私は育ってきた。」
「へえぇ・・・。すごいなぁ・・・。」
「・・・・・・。・・・なあ、ポコ。・・・もし、その―――――」

目を細め、うっとりとした表情で思わず手を握り締めるポコ。珍しく口籠ったクーが再び顔を上げたのと、パイロンを従えたタンプーがその場にやってきたのは、ほぼ同時だった。

「いやはや失敬、お待たせしましたな、クー殿。久しぶりに会った弟と、思わず話が弾んでしまいましてな。」
「あ・・・ああ。それは、別に構わんが。」
「やあ、よろしく。君が、クーさんだね。僕がタンプーの弟、パイロンです。」
「ああ。そのことは、先程このポコからも聞いた。」

クーと軽く握手を交わしたパイロンが、笑顔で頭を下げる。

「じゃあね、お姉ちゃん。明日も頑張ってね。」
「僕らも、期待してます。また応援に行きますよ。」
「ああ。任せておくがいい。」

手を振り、連れ立って去っていく二人。その後ろ姿をじっと見送っていたクーが、やがて傍らに立っていたタンプーに向かって声をかけた。

「・・・なあ、タンプー。」
「はい。では参りましょうか、クー殿。」
「・・・・・・。タンプーよ、私はまだ何も言ってはいないんだが?」
「先程、私の姪と話しておられましたな。・・・水臭いではないですか、クー殿とはもう長い付き合いではありませんか。その内容は、概ね察しが付いておりますぞ。」
「いいだろう。では、後はお前に任せよう。」

頷いたクーが、先に立って歩き出したタンプーの後に従う。その瞳には、強い意志の輝きがあった。


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