卒業  1       

卒業


 −1−

玄関のドアが小さくノックされる音に、暗竜のトトは顔を上げた。

(来たのか・・・)

手にしていた包丁をまな板の上に置き、エプロンで手を拭きながら玄関に向かう。
開かれたドアの前に立っていたのは、光竜のココだった。顔を輝かせて自らの腕の中に飛び込んで
きたココを、トトはしっかりと抱き締めた。

「トト! 元気だった!?」
「ああ。・・・少し、遅かったな。」
「仕事が、どうしても終わらなくて。帰ったら、今日も徹夜かなあ・・・」

小さく肩を竦めたココは、それでも笑いながらトトの後から家の中に入った。
二人の術士だったセトがコーセルテルを去ったのを機に、トトとココもそれぞれの道を歩み始めることに
なった。トトは残された暗竜の卵を守るためにコーセルテルに留まり、またココは族長になるべく、里の
あるイルベックに戻ったのである。
この日、死竜の月五日はセトがコーセルテルを去った日だった。
族長という立場上毎年というわけには行かなかったが、それでもこうして数年に一度、ココははるばる
里からコーセルテルの暗竜術士の家にやってくる。そして、セトの好きだった料理を二人で作り、その
日は一日・・・三人で暮らしたこの家で思い出話に話を咲かせるのだ。

「卵ちゃんたちは元気なの?」
「ああ。孵してやれるのは、まだまだ先になりそうだがな。」
「ごめんね。術士を独り占めにしちゃって・・・」
「暗竜術の素質がなかったんだ。仕方ないさ。」

セトが去って間もなく、次の光竜術士の候補がコーセルテルに現れた。しかし、あれから三十年以上が
経った今も、暗竜術士の方はそのなり手は姿を見せないままだ。勢い、トトがそのままこの家を守る
格好になっている。
台所に戻ったトトは、再び流しの前に立った。花柄のエプロンに目を留めたココが、いたずらっぽい
笑いを浮かべる。

「トト、あなた・・・まだそのエプロン使ってるのね。」
「今日だけだ。いつもはしまってある。」
「ふーん。・・・こう言っちゃ何だけど、本当にトトって花が似合わないよね。」
「うるさい。手伝う気がないんなら、黙って食堂に座ってろ。」
「はいはい。それは失礼しました。」

小さく舌を出したココは、食器の類を抱えると言われた通り食堂の方へと引っ込んでいった。
程なくして昼食の準備が整い、二人はテーブルを囲んだ。出されたシチューからニンジンをつまみ
出したココが笑う。

「懐かしいなぁ・・・お母様は、ニンジンが嫌いだったものね。」
「ああ。」
「料理に入れると、いつもすごい顔をしてたっけ。ほら、こんな・・・」
「ふ・・・そうだったな。」

セトの顔真似をするココ。釣られたトトも、小さな笑いを漏らした。
セトに関する話題は、尽きることがない。
辛いこと、悲しいこともたくさんあったはずなのだが、今となって思い出せるのはなぜか楽しかった
ことだけ。そして・・・最後には二人とも、決まったことを考えるのだった。
テーブルに頬杖をついたココが、ふと遠くを見る目になる。

「あぁ・・・お母様、今どうしてるのかな・・・」
「・・・・・・。」
「ねえトト、こっそり・・・お母様に会いに行かない?」
「また、その話か・・・。」

僅かに眉を寄せたトトは、手にしていたスプーンを置いた。
ここ十年ほど、ココは目立ってこの話題を持ち出すようになった。
故郷に戻ってしまったセトに会いたい。会って、どんな暮らしをしているのか見てみたい。
だがそれは、光竜族の族長という立場を背負っているココには難しい話だった。コーセルテルにやって
くるのさえ数年に一度、それも日帰りがせいぜいだというこの状況では望むべくもない。そんなココを
気遣って、トトは意識してこの話題を口にするのを避けていたのだ。

(まったく、困ったやつだ・・・)

心の中で肩を竦めたトトは、ココに向かってわざとそっけなく言った。

「そんなに行きたかったら、一人で行ったらどうだ。」
「だって・・・私、お母様の生まれ故郷がどこにあるのか知らないんだもの。だから、こうやってトトを
誘ってるのよ。」
「・・・・・・。」
「トトは、知ってるんでしょう? お母様がどこに住んでいるのか。」
「・・・・・・。」
「お母様も、もう五十を過ぎたはずだわ。もう、あまり時間がないと思うし・・・。」
「・・・・・・。」

むっつりと黙り込んだままのトトの様子に、ココは寂しそうな顔をした。

「トト。・・・ひょっとして、お母様に会いたく・・・ないの?」
「そんなわけがないだろう!」

思わず大声を出したトトは、次の瞬間ハッと口を押さえた。自分の向かいに座っていたココが目を
輝かせたのに気付いたからだ。
自分だって、セトに会いに行きたくないわけがない。ろくに話す相手もいない孤独な毎日の中で、とも
すれば膨れ上がりそうになるその気持ちを必死に抑えているくらいなのだ。
セトがコーセルテルを去ってから、もうじき四十年になる。竜と違って人間の寿命は短く、ココが言った
ようにあまり時間が残されていないのは確かだった。次にココがここに来られるのは、また何年後に
なるか分からない。・・・今が、最後のチャンスかも知れないのだ。

「じゃあ、いいじゃない。ねえ、行こうよ・・・」
「・・・・・・。・・・仕方ないな。」
「やった!」
「しかしな。おれが知ってるのは町の名前だけだ。母さんが見つかるとは限らない・・・」
「いいよ、それでも! さ、早く・・・早く行こう!」

顔を輝かせたココが、飛び跳ねるようにして催促する。やれやれ・・・といった様子で肩を竦めたトトは、
それでも手早く食卓を片付けると玄関へと向かった。
まだ、時刻は正午を少し回ったところで、午後はまるまる残っている。運が良ければ、セトを見付けて
話くらいはできるかも知れないのだ。となれば、一刻の猶予もない。
こうして元竜に姿を変えた二人は、期待に胸をわくわくさせながら一路北を目指して飛び立ったの
だった。


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