北風
プロローグ
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エピローグ
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かつて、北の最果ての地に「常春の都」と呼ばれた街があった。
北大陸の最北に位置する小国コーバリス。その首都ニカイアに北国の象徴である雪が降らなくなって
から、既に三十年近くが経過していた。
その昔は毎年この地も冬になると豪雪に埋め尽くされたという記録があり、急にリュネル湾周辺が
温暖化した原因は誰にも分からなかった。その一年を通じた温暖な気候からニカイアはいつしか
「常春の都」と呼ばれるようになり、毎年冬になると近隣諸国から厳しい冬を逃れようとやってくる
旅行客で賑わいを見せるようになっていた。
そんな街の様子を、街の周囲を取り巻く崖の縁に腰かけた冬の精霊アズサはぼんやりと眺めていた。
(今年もダメだったなあ・・・)
冬の精霊の特徴である水色の髪、そしてきりりと締められた鉢巻の先端が、山から吹き降ろしてくる
北風に僅かになびいた。まだ若い・・・人間で言えば「少女」の範疇に入るだろう。
(冬将軍も・・・一体何を考えてるんだろう。あたし以外に、適任者はいくらでも・・・)
アズサが冬将軍から直々にリュネル寒気団の団長に任命され、コーバリスに赴いたのは約三十年前。
当時既に冬軍でも指折りの刀の遣い手として名を馳せていた彼女ではあったが、その人選に周囲は
おろかアズサ本人でさえ戸惑いを隠すことができなかった。
理由は、その剣技に比べてアズサの冬の精霊としての術能力が余りにもお粗末だったことである。
案の定、本人の懸命な努力にも拘らず、この地に来てからこの方アズサはまだ一度も雪を降らせる
ことができないでいた。しかも、冬将軍は何を考えたのか周囲の手助けを一切禁止していた。
これでは「寒気団団長」という肩書きも形無しである。周囲からの冷ややかな視線に居たたまれなく
なったアズサは、いつしか一人きりで過ごすことが多くなった。
(やっぱり、転属願いを・・・む!?)
物思いに沈んでいたアズサは、次の瞬間背負っていた七星刀・破軍の鯉口を素早く切ると、僅かに
覗いた刃で背後から振り下ろされた相手の剣を受け、弾き返した。後ろ手のまま鞘から刀を抜き、
振り向きざま背後に立っていた相手の剣を下から跳ね上げる・・・僅か二合で相手は剣を弾き飛ば
され、尻餅をついた。
「・・・なんだ、お前か。」
相手の喉下に刀を突きつけてから、アズサはさして意外でもなさそうにそう言うと刀を鞘に収めた。
不意を突いたはずが、あっという間に自分の剣を弾き飛ばされて目をぱちくりさせていた青年は、怒る
でも落胆するでもなくにこりとすると膝を払って立ち上がった。
紫黒の長髪に深緑の鉢巻、小さな丸眼鏡が何となくアンバランスな印象を与える。
「いやあ・・・やっぱり師匠はすごいですね。敵わないなあ・・・」
「ラナイ、あたしは背後からの不意打ちなんて教えた覚えはないんだけど。」

「あれ、『戦場は闘技場とは違う、使えるものは何でも使え』と言ってたのは師匠でしょう。」
「それはそうだけど・・・」
「ふふ、お蔭で初めて師匠に刀を鞘から抜かせることができましたよ。」
「・・・ふん、勝手にしたら。」
地面に突き刺さっていた自分の剣を引き抜きながら、ラナイは満足そうにアズサに告げた。小さく肩を
竦めるアズサ。
「それより、こんな真昼間から油を売りに来てていいの? いくら自警団に毛の生えた程度の実力でも、
一応『騎士団』という肩書きがあるんだから・・・仕事もそれなりにあるんじゃないの?」
「ええ、本当ならこの時期は忙しいはずなんですけど・・・今は情勢がきな臭いですからね。今年は
ほとんど旅行客が来てないんですよ。」
「それならそれで、街や城の警備をしたらどう?」
「ははは、ダメですよ・・・そんなことをしたって何にもなりません。国同士の話はお偉いさんに任せて、
僕ら下っ端は自分の剣技に磨きをかける方がよほど有意義ですよ。」
ラナイは顔の前で手をひらひらと振って見せた。
コーバリスが唯一陸の国境を接する隣国ヴァンフォーラとの間には近年、温暖化によって「凍らない港」
となったロランの港を巡っての領土問題が生じており、一帯の領有権を主張するヴァンフォーラ側は
武力の使用も辞さないという姿勢をちらつかせてこの交渉を優位に進めようとしていた。
「・・・なるほどね。」
「というわけで、今日もよろしくお願いします。」
「いいけど・・・途中で音を上げないでよ。」
「はい! では、参ります!!」
律儀に一礼したラナイは改めて剣を構えると、アズサに向かって斬りかかった。
アズサがこのラナイと出会ったのは三年前、やはりこの崖の上だった。同じように一人ここで過ごして
いたアズサを、騎士団の任務で見回りに来たラナイが見付け「曲者!」と問答無用で斬りかかったの
だが・・・結果はもちろん火を見るよりも明らかだった。その強さにいたく感服したラナイはアズサに
弟子入りすることを強く望み、アズサもそれを受け入れた。以来、時間の許す限りラナイはアズサの
元へ通い、その剣技を学ぼうと努めているのだった。