カムフラージュ  1       

カムフラージュ


 −1−

港町ウォラストは、まだ朝靄の中にあった。
暦上では、三日前から闇竜の月である。身震いするような寒さに、町の中央大通りをゆっくりと歩いて
いたメリアは、肩を縮める仕草をした。吐く息が白い・・・初雪が見られるのも、もうじきなのだろう。
通りの西の端まで来て、メリアはその物憂げな顔を上げた。
見上げた先にあったのは、赤レンガの大きな建物。そして、三日月のマークを模った術士ギルドの
看板である。

(・・・・・・)

入り口付近でしばらく逡巡したメリアは、やがて諦めたように小さく溜息をつくと、少し離れたレンガ塀に
所在なさげにもたれかかった。

メリアは、代々優秀な魔獣術士を輩出してきた家系の生まれだった。
メリアの父もまたその例に漏れず魔獣術士であり、メリアが幼い頃から身近にはいつも魔獣たちが
いた。母を早くに亡くし、魔獣たちを家族同然に思って育ったメリアが魔獣術士の道を志したのは、
ある意味当然の成り行きであった。
五年前・・・自身の引退に際しても、メリアの父は一言も「魔獣術士を継いでくれ」とは言わなかった。
それどころか、自らも術士になると告げたメリアに向かって、近年この国で魔獣たちの置かれている
惨状・・・そして術士は重労働であり、女のメリアには辛い職業であることを懇々と諭したのだった。
しかし、メリアはそんな父の真意を読み違えるようなことはしなかった。父が、途絶えようとしている
魔獣術士の伝統を守り、魔獣たちの力になりたいと常々思っていたのは分かっていたし・・・何より
自分自身も、純朴で裏表のない魔獣たちが好きだったからだ。

その父も、メリアが一人前の魔獣術士になるのを見届けるようにしてこの世を去り、父の許で暮らして
いた魔獣たちもそれぞれの故郷に帰るために町を去っていった。これを機に、自らも魔獣術士として
独立することを決心したメリアであったが・・・時代は既に、彼女の幼い頃のそれとは大きく変わって
しまっていたのだった。
かつては、魔獣と人間が平和に共存していたというこの町も、いつしか両者の間には深い溝ができて
いた。そんな中、今更術士ギルドでは魔獣術士の登録などを受け付けてくれるものなのだろうか。
笑われるだけなら、まだいい・・・しかし、下手をすれば魔獣を嫌悪する人々によって、私刑に
かけられる可能性だってあるのだ。
いや、そもそも・・・本当に魔獣術士は求められているのだろうか。いや、“魔獣術”自体が失われつつ
ある今、その需要はあるに違いないが・・・その対価を支払える魔獣族がこの町にどれだけ存在
するのか。メリアは決して法外な要求をする気はなかったが、これには自分の生活もかかっている。
・・・そんなことをまず考えてしまう程に、身近で目にする魔獣たちの生活は悲惨なものだった。
考えれば考えるほど決心が付かなくなる。こうして、ここ数日メリアはギルドの入り口まで来ては家に
引き返す、ということを繰り返しているのだった。


  *


どのくらい時間が経ったのだろうか。気が付くと、足元の影がかなり短くなっていた。恐らく、もう正午が
近いのだろう。

(・・・?)

ぼんやりと地面を見つめていたメリアは、ふと懐かしい気配を感じて顔を上げた。
目の前を横切ったのは、大小二つの人影だった。二人とも全身を覆うローブを身にまとい、フードを深く
被っているために、その顔を窺い知ることはできない。だが、人間とは明らかに違う特有の気配に、
メリアは二人が魔獣族であることをすぐに察することができた。

(親子・・・じゃないわよね)

二人は共に身を隠すような格好をしていたが、子供の方が格段に身なりが良かった。もう一人の
丁重な態度からしても、親子よりも主従と言った方がしっくり来る。・・・きっと、大事な“預かり人”
なのだろう。
ギルド入り口の階段の前で立ち止まると、大人の方が身を屈めて何事かを囁く。それを聞いた子供が
僅かに頭を動かした。・・・どうやら頷いたようだ。
その様子を見てこちらも頷いた大人の魔獣は、ギルドのある建物の中に入っていった。

(それにしても白昼堂々と、それも術士ギルドに・・・何の用なのかしら)

港町ウォラストは、町の中心を流れるエフィク川によって大きく二つの区画に分かれている。
ウォラスト港は川の東岸にあり、他にも役所や病院、学校といった主要な公共施設はこちら側に集中
している。人間たちが暮らしているのはこの東岸であり、町の文化的な活動は当然、全てこちら側で
行われている。それに対して、川を挟んで西側には、主として港内外での肉体労働に従事する魔獣
たちが住んでいた。東側に比べると住環境は劣悪であり、もちろん住民としての権利など何一つ保障
されてはいない。
両区画は川にかかる数本の橋で結ばれていたが、夜間は魔獣族の東岸への出入りは厳しく禁じ
られていた。もっとも、例え昼間であっても・・・近年のウォラストには、魔獣たちが自らの居住区である
西岸から外に出るのを憚るような雰囲気が満ちていた。こうした状況下で、魔獣族だけで堂々と東岸
・・・それも町の中心を訪れるというのは、極めて珍しいことなのだった。
加えて、魔獣術・・・及び魔獣術士が失われつつある現在、術士ギルドで雇うことができるのは
基本的に精霊術士ということになる。隣国ユックルの“特産品”である精霊術士たちは皆有能
だったが、その分雇うためには多額の金銭が必要だった。この町に暮らす魔獣たちの惨状を
知り過ぎるほど知っていたメリアには、とても一介の魔獣族にそれを払えるとは思えなかった。

(・・・まあいいわ。私には、関係ないもの・・・)

しばらくの間、階段を挟んで反対側に残された魔獣の子供の方を眺めていたメリアは、やがて視線を
自らの足元へと戻した。
・・・どうやら、今日も決心できそうにない。
家へ帰ろうと、溜息をついたメリアが再び顔を上げたとき・・・魔獣の子供の姿は、いつの間にか通りの
ほぼ真ん中にあった。もう一人の魔獣族はまだ建物から出てきておらず、大方ただ待っていることに
飽きて、周囲の土産物屋の店先でも見て回ろうと思ったのだろう。
・・・と、子供が石畳に足を取られて転んだ。その拍子に、被っていたフードが脱げて魔獣族特有の角が
露になる。もちろん、まだ幼年とあって具えている角もかわいいものだ。

(・・・危ない!)

そんな魔獣の子供の様子をぼんやりと眺めていたメリアの目が大きく見開かれる。通りの向こうから、
猛スピードの馬車が突っ込んでくるのが見えたからだ。
これが、もし人間の子供の場合であったなら。馬車は急停車し、怒鳴り声か・・・もしくは拳骨の一つも
食らったところで無事に済んだだろう。しかし、このとき御者は僅かに顔を歪めただけで馬車の
スピードを緩めようともしなかった。そう、このウォラストでは、魔獣族が人間の飼っているペット以下に
扱われることも少なくないのだ。
あっと思ったときには、メリアは半ば無意識のうちに魔獣の子供の方へと走り出していた。そして、
通りの真ん中で呆然と座り込んでいる相手を助け起こそうとする。

「ちょっと・・・しっかりして!」

しかし、魔獣の子供は、自分の方へ驀進してくる馬車を見てすっかり腰を抜かしてしまっていた。とても
ではないが、女の細腕では相手を安全な場所まで引っ張っていくことは無理であり、このままでは二人
とも命の危機に晒されるのは確実だった。

(・・・間に合わない!)

残された手段は、一つしかなかった。
覚悟を決めたメリアは、縋るように自分を見つめる相手の目を正面から覗き込んだ。

「君! 力を貸して!!」

相手が微かに頷いたのを認め、メリアは目を閉じた。そして、相手から流れ込む力を自分の中で整え
・・・一瞬の後、それを解放する。
馬車が走り去った後、二人の姿は通りの反対側にあった。
魔獣術。瞬間移動は、数ある魔獣術の中でも最も基本的な術である。相手がメリアの意図を瞬時に
理解してくれるかどうかは一種の賭けだったが、どうやらそれが運良く図に当たったらしい。
普通なら、拍手喝采の一つも起こってもいいところである。しかし、周囲で二人の行動を見守っていた
人々の反応は冷淡だった。二人が無事だったことを喜び、手を貸す者もいない・・・それどころか、
残念そうに舌打ちをしたり唾を吐いたりする者が殆どだった。
もう、こうした人々の反応に慣れっこになっていたメリアは、膝を払いながら立ち上がると魔獣の子供に
手を差し出した。

「大丈夫? 一人で立てる?」

目を丸くしていた相手は、時間が経つに連れて、やっと自身の身に起こったことが飲み込めてきた
らしい。立ち上がると同時にメリアに抱き付き、辺りを憚らずに激しく泣き始める。メリアは、そんな
相手を優しく抱きとめた。

(この子・・・)

これだけの術の素質を持ちながらも、この魔獣の子供にはその訓練を受けた様子が殆ど見られ
なかった。無論、魔獣術士の存在が稀有になっている現在、それは自体は不思議でも何でも
なかったが・・・考えてみれば悲しい現実である。
術の円滑な習得には、幼い頃からの教育が欠かせない。一昔前であれば、これ程の術の素質を
持っている子が放って置かれることはなかったはずだ。

「若!!」

背後で、荒々しく扉の開けられる音がした。振り返ったメリアの目に映ったのは、件のもう一人の
魔獣族の姿だった。泣きじゃくる子供を抱いたメリアの方に駆け寄った相手は、状況を説明しようと
したメリアにその暇も与えず、胸倉を掴み上げるとこう怒鳴ったのだった。

「貴様ァ! 若に一体何をした!!」


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