カムフラージュ
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城壁の上に立ったメリアは、遥か先に広がる海原を眺めていた。
水平線は、ワッセン島周辺に立ち込める海霧のためにはっきりしなかった。手前には、テイン・
マルピア両島に聳える巨大な灯台の白さが目に鮮やかである。
ベセレア砦。ウォラストから南南西に約四十リーグに位置するこの砦は、かなりの高さの山の上に
あった。内部には現在、若い男を中心とする凡そ三百人の魔獣族が立て籠っている。
人口約三十万、駐屯するエリオット国軍二万を数えるウォラストから見ると取るに足りない規模では
あるが、彼らに言わせればここが人間族との戦における「最前線」ということになるのだろう。
「・・・こんなところにいたのか。」
「ヴェレス。」
背後からかけられた声に、メリアは振り向いた。
潮風に吹かれてなびく髪を押さえ、微笑む。
「この砦・・・いいえ、魔獣族一の猛将と謳われるクーゼ将軍が、こんなところで油を売っていていいの
かしら?」
「それを言うなら、メリア。・・・今や、魔獣族の希望の星となったそなたもそうだろう。」
メリアのからかうような呼びかけに対して、近付いてきたヴェレスもにやりとするとやり返した。
当初、人間族であるメリアを遠巻きにしていた魔獣たちも、メリアが優秀な魔獣術士であること・・・
そして、魔獣たちに対して色眼鏡を使わないことが分かると、次第に打ち解けるようになった。砦を
訪れてから半月、既にメリアは彼らにとってなくてはならない存在になっていた。
「若は?」
「今はライゼンさんと武術の訓練よ。こればかりは、私は手伝えないし・・・」
「ふむ。ま、そうだろうな。」
若と呼ばれる魔獣たちの王子・・・クオンに、魔獣術の手解きをするのがメリアの日課だった。その
他にも、魔獣術を身に付けたいと願う魔獣たちは多かった。その対応に追われ、メリアは毎日休む
暇もなかったのだ。
現在この砦の中にいる魔獣たちの中で、曲がりなりにも魔獣術を使うことができるのはヴェレスだけ
だった。“王”がいるという彼らの本拠地・・・カラバルにある城には、他にも数人は魔獣術を操れる者が
いるという。しかし、その誰もが既に老齢で、後継者を育てることは不可能なのだった。
「どうだ、ここの生活には慣れたかな?」
「そうね・・・。最初は、もっと荒んでいると思ってたけど。」
隣に立ったヴェレスの問いかけに、メリアは微笑んだ。
仮にも、人間族の国家であるエリオットへの“叛乱軍”なのである。エリオット国軍との小競り合いが
日常的に行われ、さぞかし緊張感のある毎日なのだろう・・・というメリアの予想とは裏腹に、砦での
生活は穏やかなものだった。
毎日、決められた時間行われる調練。それを除けば、毎日の生活は普通の町のそれと変わらない。
砦の周囲には食料調達のための畑さえ作られており、そのことを聞いたメリアは驚くというより呆れて
しまったのだった。その他にも、人間族の中にもメリアのように魔獣たちに心を寄せる者がおり、
そうした者たちの援助を受けた砦内の生活は意外に豊かだった。
もちろん、こうした生活を営むことができている一番の理由は、魔獣たちの規模が昔に比べて悲しい
ほど小さくなってしまったことにあった。最寄のウォラストに駐屯するエリオット国軍は約二万。兵力が
その僅か百分の一程度の魔獣たちの「前線基地」は、この砦のリーダーであるヴェレスが周囲での
盗賊行為を厳重に慎ませた結果、人間族にとって無害なものとして放置されるようになったのである。
「ところで・・・術のことだけど。」
「うむ。引き受けてくれる決心は付いたかな?」
「それは、術を教えることは構わないわ。だけど・・・いくらなんでも私一人で二百人からっていうのは
無理よ。」
「分かっている。今、優秀な者を五名選抜しているところだ。この五名に、できる限りのことを教えて
やってもらえないか? 急場は、それで凌ぐしかあるまい。」
一口に“魔獣術”と言っても、その内容は多岐に亘る。瞬間移動に始まって念力や念話、透視といった
数々の魔獣術は戦闘に向くものが多かった。もともと体躯や膂力に優れる魔獣族なのである。彼らが
魔獣術を意のままに操れるようになれば、世界で最強の軍隊にもなり得るのだ。
しかし、メリアには彼らに、その力を過信した暴徒になって欲しくはなかった。あくまで魔獣術を彼らに
教えるのは、自衛のため。この能力を用いて侵略を行うようなことがあれば、まず自分が相手になると
・・・メリアは砦を訪れた際、魔獣たちを前にしっかりと釘を刺したのだった。
もちろん、祖国を人間に侵略された・・・という根深い恨みの感情が、魔獣たちの間に深くわだかまって
いることは知っていた。それを上手く抑えることができるかは、彼らの実質上のリーダーである
ヴェレスの人望と手腕にかかっていた。
「ねえ・・・ヴェレス。ウォラストの市長の容態が良くないって話は知っている?」
「うむ。一応、顔を合わせて話をしたこともある間柄だからな。どうやら、息子がその跡を継ぐことに
なるらしいが・・・。」
「ええ。」
頷いたメリアは、その視線を遥かな水面へと向けた。
「一つ、考えていることがあるの。・・・聞いてくれる?」
「どのようなことかな?」
「今の市長の息子・・・ジョルジュと私は個人的に親しい間柄なの。彼が市長になったら、私は彼に
会いに行こうと思ってる。」
「メリア! それは・・・」
「最後まで聞いて。・・・確かに彼は、魔獣族を目の仇にしているわ。このまま放っておいたら、遅かれ
早かれウォラストの魔獣族たちは酷い目に合わされる可能性が高いでしょう。」
ヴェレスと出会ったあの日から・・・ジョルジュには何も言わずに、メリアはウォラストから姿を消したの
だった。その後、あの町の魔獣たちがどうなったかは分からない。何事もなければ・・・と祈るような
気持ちだった。
「だから、私は彼とある交渉をしようと思うの。具体的には、魔獣たちへの待遇の改善と・・・魔獣と
人間がお互いを侵さずに暮らすことのできる地域の創設。言わば、中立地帯ってところかしらね。
エリオット西部の中核都市であるウォラストの市長には、そうしたことを中央と交渉する力はあるはず
だわ。」
「・・・・・・。」
「だから、そのために・・・ヴェレス。あなたの、率直な気持ちを聞かせておいてくれないかしら。」
「率直な・・・気持ちとは?」
「このまま、あくまでここに留まって“叛乱”を続けるつもりなのか、それとも交渉の結果次第ではここを
捨てて、さらに南へ移る気があるのかどうか。・・・条件として、あなたたちの“叛乱”の沈静化を持ち
出される可能性が大きいから。」
しばらく考えていたヴェレスは、やがてゆっくりと話し始めた。
「これは、ここだけの話にしてもらいたいが。」
「ええ。」
「正直、この“叛乱”については・・・儂も潮時ではないかと思っている。若い頃は、ここから全土を回復
するのだと気負ったこともあったが、結局・・・人間に相手にもされない規模になってしまったしな。」
「・・・そうね。」
「曲がりなりにも、現在は平穏な生活が営めるようになっている。戦など、ない方がいいに決まっている
・・・ならば、お互い戦の口実にもなり得るこのような場所は、できるだけ早く解散したいのだがな・・・。」
ヴェレスの口調は、珍しく歯切れが悪かった。その訳を、もちろんメリアは知っていた。
ヴェレスは、国土の回復を・・・そして、祖先の栄華を偲ぶ多数の魔獣族たちの期待を一身に背負って
いた。いつか、彼が国を再興してくれる。そうした希望を拠り所にして、国中に散らばった魔獣たちは、
不遇な環境にも不平一つ言わず耐えているのだ。そして、この砦がその象徴なのだった。
そんな中、その中心人物であるはずのヴェレスがこの抵抗運動を止めると言い出したらどうなるか。
絶望し、あるいは自暴自棄に陥った魔獣たちの末路は、改めて言うまでもないだろう。どちらにせよ、
ヴェレスが自らこの抵抗運動から手を引くことはできる訳がなかったのだ。
しかし一方で、この砦の存在は人間との関係を不味くする原因にもなるのだ。早い話が、罪を犯した
魔獣をでっち上げ、それが逃げ込んだのだと言い立てるだけで戦を仕掛けることができる。・・・ジョル
ジュが本気で魔獣たちを迫害しようと考えているのならば、これに目を付けないはずはなかった。
「ここより南は、まだ儂ら魔獣族が比較的多く暮らしている地域。事実、儂らと人間が仲良く共存して
いる場所も少なくないのだ。皆は執着しておるようだが、正直領土などは要らぬ・・・王の存在を認め、
そうした場所での生活が認められるならば、皆を納得させられるだろう。」
「そう・・・分かったわ。」
ヴェレスの考えは、やはりメリアの予想していた通りだった。これで、魔獣たちの動揺を抑えることは
できるだろう。後は、ジョルジュの出方次第ということになる。
頷いたメリアを、ヴェレスは訝しげに見やった。
「・・・メリアよ。もしや、そなた・・・最初からそのつもりで、儂らの許を訪れたのか?」
「そのつもり・・・って?」
「いずれは、儂ら魔獣族と人間たちとの間に立って、こうした交渉をするつもりだったのか・・・という
ことだ。」
「そうね・・・。正直、半々といったところかしら。さっき言ったことは私の持論だけど、みんなの
リーダーであるあなたの考えまでは読み切れていなかったし。」
いたずらっぽく微笑むメリア。
「だが・・・それならば何故。儂らに魔獣術を教えることは、そなたの理念に反するはず。この交渉、
あるいはその結果に不満を覚えた儂の部下たちが、そなたや他の人間たちにその魔獣術をもって
戦を仕掛けるようなことがあれば何とするのだ?」
「それはあなたの言う通りね。だけど・・・“交渉”をするためには、ある程度こちらにも力が必要なの。
そうでなければ、一方的に“要求”をされるだけでしょう?」
「そなた・・・。」
一瞬呆れた表情を浮かべかけたヴェレスは、次の瞬間にやりと笑った。
「全く、そなたは恐ろしい女子だ。・・・そなたほどの参謀が以前から儂らについておれば、ここまで
儂らが没落することはなかったかも知れぬ。それを考えると、いくらか口惜しい気さえするわ。」
「あら・・・それは、ほめ言葉として受け取っていいのかしら?」
「無論、そのつもりだが?」
「まあ、ヴェレスったら!」
メリアも、ヴェレスに向かって笑い返した。並んで海原を眺める二人を潮風が包む。
しばらくして、ヴェレスがぽつりと呟いた。
「交渉・・・と言ったな。これがまとまった後、そなたはどうするつもりなのだ・・・メリア?」
「そうね・・・。まだ、そこまでは考えていないけど。」
「そなたと交わした契約は、若に一通りの魔獣術を教えるということだったな。・・・できれば、その後も
この地に留まってくれぬか? せめて、若が成人されるまででいい。」
「そうね・・・考えておくわ。」
いつの間にか肩に回されたヴェレスの腕に、メリアはそっと手をやった。
もし、この交渉が上手くまとまったとしても・・・もう、ウォラストにメリアが戻ることはできないだろう。
戦争が回避できたとしても、人間たちの心の中にある、魔獣を嫌悪する気持ちまでは消せは
しないのだ。
それならば、やはり・・・国外に出るよりは、魔獣たちの傍で暮らしたかった。この砦で生活するように
なって半月、メリアは砦の魔獣たちを好きになり始めていたのだ。自らをまるで母のように慕ってくれる
クオン、そして何より・・・この朴訥なヴェレスを。
答えは、最初から決まっていた。
(・・・・・・)
いつしか、日が西に傾いていた。茜色に染まった海霧を眺めながら、メリアはヴェレスにそっと寄り
添ったのだった。