HAZY MOON  1       

HAZY MOON


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風鈴の音で、目が覚めた。

(・・・・・・)

暗竜のナータは、ゆっくりとベッドの上に起き上がった。
向けられた視線の先。月明かりに照らされた窓辺には、古ぼけた風鈴があった。
あれは、そうだ・・・まだ、自分たちがほんの子竜だった頃。最初で最後の、コーセルテル外への“家族旅行”の行先は海だった。記念にと皆で拾った貝殻で作ってもらった、何の飾り気もないその風鈴は、今やナータにとって・・・その術士を偲ぶことのできる、数少ない形見の一つとなっていた。

屋内に吹き込む風が、風鈴を微かに鳴らしては通り過ぎていく。その様子をぼんやりと眺めていたナータは、やがて静かにベッドから降り立つと、窓の前に立った。半開きだった窓に手をかけると、それを大きく開け放つ。
例年より一週間ほど早い、雨季の始まり。それからというもの、月らしい月をナータが目にしたのは、これが初めてのことだった。
薄雲をまとった、朧月。それをじっと見上げながら、ナータは心の中で呟いた。

(マシェル・・・)

思えば、自分が最愛の術士を見送った日も、こんな月夜だった。
もう、あれから二年。
マシェルのいない毎日にも、すっかり慣れた。しかしその一方で、心のどこかでマシェルの死を信じられないでいる自分がいることに、ナータは気付いていた。
目を瞑ると、その声・・・そしてその眼差しを、今でもはっきりと思い出すことができる。
今にも、部屋のドアがノックされ、あの優しい笑顔が覗くのではないか。・・・あり得ないと分かっていても、どうしてもそんな期待を抱いてしまうのだ。
思わず部屋の入口を振り向きかけたナータの視界に、自分の長い髪が入る。
マシェルと別れたその日から、伸ばし続けている髪。特に理由があって、始めたことではなかった。その死の直後は、何もかもが億劫だっただけだ。
二年の歳月を経て、腰の下まで届く長さになったその髪は、結果的に今、ナータにとってかけがえのないマシェルとの“縁”になっていた。

(・・・・・・)

どうやら、今夜も眠れそうにない。
小さく溜息をついたナータは、静かに窓を閉めた。ベッドの枕元に置いてあった外出用の上着を羽織ると、静かに部屋の外へと出る。
ナータの居室は、建物の四階にあった。術士であるマシェルの結婚を機に、それまで三階にあった自らの居室を譲り、使われていなかった上の階に移ることにしたのだ。それ以来、ずっとこの部屋で過ごしている。
足音を忍ばせて、階段を降りる。二階には二代目の「竜王の竜術士」の部屋と、その子竜たちの寝室がある。誰かが気付いて起き出すようなことがあれば、大騒ぎになることは目に見えていた。
玄関に辿り着いたナータは、その扉を静かに押し開けた。
月の光に照らされた草原が、緩やかに南に向かって下っている。その半ばで立ち止まったナータは、振り返るとこの半世紀を過ごした家に目をやった。

今からおよそ五千年前に時の地竜王によって造られた、「子竜の楽園」コーセルテル。中央湖の畔からこの辺り一帯にかけては、政庁や学校といった主要な建造物が立ち並んでいたという。この家は、二度のコーセルテル崩壊によって損壊した、それらの建物の名残なのだと・・・いつかナータは、地下室に住まう竜王の竜術士の幽霊から聞いたことがあった。

「こんばんは、ナータさん。」
「・・・ルンか。」
「こんな時間に、どうしたんですか?」

不意に声をかけられ、ナータは振り向いた。そこに立っていたのは、家から程近い木に宿る精霊であるルンタッタだった。
彼女とナータたちの付き合いは長い。その昔、幻獣人・ターフ族のエントットからの頼みで、消えかけていたルンタッタを救ったのが、ナータの妹弟竜たちだった。以来彼女とは家族ぐるみの付き合いが続き、すっかり一人前になったルンタッタは、今では竜王の竜術士の家の木の面倒も見てくれている。雨漏りがひどく、今まで居室として使えなかった四階が利用できるようになったのは、ひとえに彼女のお蔭だった。

「・・・散歩だ。」
「そう・・・ですか。」

いつも通りの、言葉少なな返事。その中から、ナータの苛立ちを敏感に感じ取ったのだろう。目を伏せたルンタッタが、一歩身を引いた。

「今は月が出ていますけど、いつまた天気が悪くなるかわかりません。森の中を通るときは、足元が暗いですから・・・くれぐれも気を付けてくださいね。」
「・・・ああ。そうしよう。」

暗竜である自分にとって、闇夜は人間にとっての昼間のようなものだった。ルンタッタの言葉は、ナータには“余計なお世話”以外の何物でもなかった。
しかし、そのことをわざわざ口にして、相手を傷付けるほどナータは意地悪でも、またもの好きでもなかった。・・・いや、そもそもそういった遣り取り自体が億劫だったいうのが、正直な気持ちだったろう。

「・・・そうだ。あいつらにおれのことを訊かれたら、湖まで行くと言っていたと伝えてくれ。」
「はい。わかりました。」
「頼んだぞ。」

踵を返し、ゆっくりと歩き始めるナータ。その後ろ姿を、ルンタッタは微かに不安そうな表情を浮かべて見送ったのだった。


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