HAZY MOON    2     

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湖までは、徒歩で三十分ほどの距離だった。
曲がりくねった森の中の小道は、程無くして小さな集落へと突き当たる。時間が時間とあって、しんと寝静まった村の家々の間を、ナータは無言で歩いていった。
幻獣人の一種族である、ニアキス族の村。
かつて遺跡に入り込んでは、「冒険」という名のイタズラを繰り返していたニアキス族の少年たち。彼らも当の昔に大人になり、そのうちの一人は今では族長として村をまとめる立場にある。
時の流れるのは早いものだ。そう思わざるを得ない。

村外れに建つ、一軒の古びた家の前でナータは歩を止めた。
住む者が居なくなって、もうどれくらいが過ぎただろうか。手入れをする親類の者もいないらしく、建物は荒れるに任せている。
かつてこの家には、子竜たちの“祖母”代わりの幻獣人が住んでいた。そして、その屋根裏部屋には、暴れ者の冬の精霊がひょんなことから居候することになったのだった。
第一印象は、最悪だった。己の力を過信し、それを見せ付けるためだけに竜術士への勝負を挑む。ナータとの衝突も日常茶飯事だったが、そんな彼もコーセルテルで過ごすうちに少しずつ変わっていった。あの憎まれ口だけは最後まで直らなかったが、いざというときは結局いつも、マシェルを助けてくれたのだ。

(・・・・・・)

庇を見上げていたナータの漆黒の瞳に、すっと陰が差す。それは、忌わしい“戦い”の記憶だった。

今からおよそ三十年前。平穏な毎日が続くかと思われていたコーセルテルは、ある日未曾有の「危機」に見舞われることになった。・・・外部からの徒党を組んだ侵入者、「竜狩り」の集団がコーセルテルに現れたのである。
その歴史を紐解けば、コーセルテルに害意ある侵入者が現れたのは、これが初めてのことではなかった。しかし、圧倒的な竜術の力によって、侵入者はその都度瞬く間に撃退され、結果的にコーセルテルの住人たちは事無きを得てきたのだ。
コーセルテルにとって不幸だったのは、彼等がただの冒険者の集団ではなく、国家の密命を帯びた、言わば軍の人間だったことだ。集団を率いていたのは強力な術を操る精霊術士で、後の話ではこれもかつて精霊術士だったカディオと面識のある仲だったという。

こうして、コーセルテルが再び「竜狩り」の脅威に晒されたとき。エレやカディオ、ランバルスといった、外界の人間たちの“恐ろしさ”を知る面々からは、一刻も早く相手を殲滅するべきだという声が上がった。
それに対して、マシェルやミリュウからは、対話による平和的な解決を目指そう・・・という意見が出され、竜術士の寄り合いは大揉めに揉めた。重ねられた話し合いの結果、最終的に善意の対話路線が採られることになったが・・・その“結果”としてもたらされたのは、複数の幻獣人たちの死と水竜リリックの瀕死の重傷という最悪のものだった。

あのときのエレの様子は、今思い出しても身震いする程だった。恐らく、「鬼気」というのはあんな状態を指す言葉なのだろう。逆上した彼女は、迫りくる敵を一刀の下に三人まで斬って捨て、刺し違える形で部隊の副隊長格の男に止めを刺した。他の竜術士たちもあるいは竜術で、そしてあるいは自らの剣術や精霊術で掃討戦に協力し、結果的に最年少だった一人を除いて侵入者は皆殺しになった。竜たちと触れ合ううちに、非道な任務に疑問を抱くようになっていたその一人は、戦いで半身不随になったランバルスの説得を容れ、地竜術士を継ぐことになったのだ。

(・・・・・・)

小さく首を振り、ナータは再び歩き出した。
今でも、あの戦いのことを思い出す度に、ナータの気分は暗く沈んでいく。しかしそれは、他の者たちとは全く異なる理由からだった。
マシェルが四十九歳で死んだのは、今から二年前のことだ。「人間五十年」と言われる中、それに届かぬ竜王の竜術士の早逝に、周囲からは様々な惜別の言葉が寄せられたものだった。
しかし、病気らしい病気、怪我らしい怪我をしたことのなかったマシェルが何故。・・・皆の胸に、等しくあったであろうこの疑問に対する“答え”を、ナータは知っていた。

『彼は、「竜の力」によって死んだのだよ』

葬儀の際に、地竜族の族長に耳元で囁かれた言葉。そのときの衝撃は、今でも昨日のことのように思い出せる。
例えば、氷を手にしたときのことを考えてみよう。短い時間ならば、少々冷たい思いをするくらいで、何の害もない。しかし、それがある限度を超えた長さになった瞬間・・・氷は凍傷をもたらし、最終的にはその手を腐らせる“凶器”になる。
人間にとって、同化竜術の長時間の使用は、この“氷”に他ならないというのだ。目に見えないダメージが体に蓄積され、それが竜術士の命を縮めることになる。

まだ子竜だった自分たちを、そしてコーセルテルを守るために外界からの侵入者と戦うと心に決めたとき。どんなに周囲に止められても、マシェルは同化術を遣うのを止めようとしなかった。
ただでも負担の大きい同化術。それを、優に三日の間遣い続けることができたのだから、流石に竜王の竜術士と言うべきだろうか。戦いの終結とともにマシェルは人事不詳に陥り、再び意識を取り戻したのはそれから一週間以上が過ぎた後だった。
そうだ。マシェルの余りに早い死期を招いたのは、“守られるべき存在”である、子竜だった自分たちということになるのではないか。
力は、あった。
自分は、他の六人の弟妹竜たちとは根本的に異なる存在だった。長い間、自らを孵してくれる暗竜術士を待ち続け、既に卵の中に居るときから人格・術力共に成竜並のものを備えていたのだ。マシェルによって孵された後も、周囲と同じ子竜の姿で過ごしていたのは、弟妹竜たちに気を遣ってのことだった。
あのマシェルのことだ。周囲がどう言ったところで、自身の信念を変えることはなかっただろう。その場合、マシェルを守るために選べる道は一つしかなかった。
マシェルの力を借りずに、ナータ自身の力だけで侵入者たちと戦う。それしかなかった。なのに―――――
あの時、自分にそれだけの覚悟があれば。
このことを知っているのは、マシェルに育てられた子竜たちの中では、ナータ一人だけだった。
慙愧の念に苛まれるのは、自分一人でいい。それが、マシェルに育てられた子竜たちの中で、最年長だった自分の義務であり、責任でもあるのだろう。

「・・・・・・。」

足下を見ながら歩いていたナータは、微かな水の香りに気付いた。目を上げると、木々の間を通して月の光を照り返す湖面の煌きが見える。
目指す湖畔は、もうすぐだった。


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