HAZY MOON
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中央湖の岸辺に立ったナータは、月の光に煌く水面を黙って見つめていた。
微動だにしないその姿がこの岸辺に現れてから、既に一時間以上が経っている。
考えることは、いつも同じだった。
この湖ができたのは、約五千年前のコーセルテルの成立と同時なのだという。それからのコーセルテルの栄枯盛衰・・・竜と竜術士の織り成す歴史を、この湖はずっと見守ってきたことになる。
周囲には、竜術士の墓が多かった。ということは、それと同じだけ、術士と死に別れることになった竜が存在したということになる。
・・・一体どれだけの竜が、こんな気持ちでこの場所を訪れることになったのだろう。
「あ、いたいた。やっと見つけたわよ。」
「!」
不意に、背後からかけられた声。
振り向いたナータに向かって、光の塊が飛んでくる。受け止め損ねたそれは、地面に落ちて透明な音を立てた。それをゆっくりと拾い上げながら、ナータは近付いてくる人影・・・火竜術士のアグリナに向かって顔を顰めてみせた。
「・・・相手に向かってグラスを投げ付けるのが、おまえの挨拶か。割れたらどうするつもりだったんだ、アグリナ?」
「お生憎様。イム特製のグラスは、少々のことじゃびくともしないんだから。」
イムというのは、引退したイフロフの後を継いだアグリナが、最初に孵した火竜の名だった。補佐竜としていつもアグリナの傍らにいた彼女は、今はその主が姿を消した火竜術士の家を守っている。
「大体な、グラスなど―――――」
何に使うつもりだったんだ、と言いかけたナータは、アグリナが振ってみせた瓶に気付いて首を傾げた。
「まさか、それは・・・」
「そう、あたしの寝酒。今日はあんたも付き合いなさい。」
「馬鹿な。飲みたければ一人で飲むがいい。」
吐き捨てるように言い、相手を睨み付ける。素知らぬ顔をしたアグリナは、ナータの隣に並ぶと同じように煌く湖面に目をやった。その琥珀色の瞳には、今も変わらぬ茶目っ気がある。
「もう、ナータ・・・あんたも意外と鈍いのね。このクソ暑いのに、火酒をそのまま飲もうって酔狂な竜術士がどこにいるっての。」
「目の前にいる気がするが、おれの気のせいなのか?」
「嫌味言ってないで、さっさと氷を作るわよ。ほら、同調術!」
「それが目当てか・・・。」
見習いの頃から、この火竜術士のマイペースさには敵わない。ポケットからしたり顔で術道具である「水の小瓶」を取り出したアグリナの様子に、ナータは溜息をつきながらもその暗竜術を発動させた。水暗同調術によって作り出された氷がグラスの中に落ち、そこに火酒が注がれる。
(・・・・・・)
酒は、好きでも嫌いでもなかった。術士であるマシェルが家では酒を飲まなかったために、その子竜たちもそうした“機会”に恵まれなかっただけだ。そんな一家に飲酒の習慣を持ち込んだのが、自身も酒呑みの父を持つこの火竜術士だったのだ。
じっと手元を見つめていたナータは、やがてゆっくりとグラスに口を付けた。
豊潤な風味と、焼け付くような感触が喉の奥を流れ落ちていく。小さくむせ、少し涙目になりながら、その隣で早くも二杯目を注いだ火竜術士に向かって、呆れた口調で言う。
「しかしな、アグリナ。」
「何よ?」
「おまえ・・・こうやって夜な夜な酒を抱えて、コーセルテルを彷徨い歩いているのか?」
「何よ、文句あるの?」
「文句も何もだな・・・。おまえは一応、火竜術士なんだろう? 術士が子竜を放っておいていいのか?」
「一応は余計よ。いいじゃない、火竜たちもみんな大きくなったし・・・。大体それは、こんな時間にここにいたあんたに言われる筋合いじゃないわ。」
「・・・・・・。」
鮮やかに切り返され、ナータは苦笑いすると視線を湖面へと戻した。二口目を呷ったナータに向かって、アグリナが何気なく言う。
「しかし、暗竜ってのは律儀なモノよね。」
「・・・・・・。どういう意味だ?」
「マシェルが死んで、もう二年になるのよ。未だに、マシェルのことが忘れられなくて、こんなところで悲劇の主人公みたいな顔をしてるんでしょう?」
「悲劇の主人公だと? おれは―――――」
「でもね。悪いけど、あたしの勝ちよ。」
アグリナの揶揄を含んだ言葉に、キッとなったナータはアグリナの方を振り向いた。酒の酔いも手伝って、その眼付きがいつもよりずっと険しくなっている。
「戯れ言はよせ。一体何を、勝ちだ負けだなどと―――――」
「あたしだって、育ての親・・・オヤジとは当の昔に死に別れてるのよ? だから、それでおあいこ。その上、あたしは最愛の夫にも先立たれてるんだから・・・どう考えたってあたしの勝ちじゃない。」
(・・・―――――ッ!)
よりによって、マシェルの死を冗談の題材にされるとは。・・・もう、我慢の限界だった。
言葉の途中から鷲掴みにしていたグラスを、地面に叩き付ける。ナータはアグリナに向かってのしかかるような格好になると、大声で吼えた。
「おまえに、何がわかる!! おまえは平気かも知れないが、おれは―――――」
パァン!
「!?」
次の瞬間、ナータは思わずよろめいた。アグリナが、ナータの頬を思い切り平手打ちにしたのだ。
「こら! しっかりしなさい、ナータ! あんたは、それでも・・・竜王の竜術士の補佐竜なの!?」
「な・・・なんだと!?」
「あんたは、このコーセルテルで・・・この世で最後の暗竜なのよ! こんなところでクダ巻いてる場合じゃないでしょう!!」
「この世で最後の暗竜」。その言葉に、ナータはびくりと体を震わせた。
既に、暗竜の一族は遠い昔に、この星を後に宇宙へと旅立ってしまっていた。残された卵も、時の暗竜術士たちの手によって少しずつ孵され、現在コーセルテルに残る暗竜は、自分を含めて三人だけになっていた。
メリアが育てた姉妹には、それぞれ想い人がいた。それが自分ではない以上、今後暗竜の卵が生まれることはなく、それは即ち・・・この星の暗竜の系譜が、ここで途絶えるということを意味していた。
(なぜ、おれが―――――)
アグリナの言葉を聞きながら、ナータはマシェルが竜術士になりたてだった頃の、他の補佐竜たちの顔ぶれを思い出していた。
術士の死に伴い、里に戻り族長や里長、守長といった役割に就いた者。
新たな術士の候補を迎え、その教育と補佐に当たっている者。
何事もなく、今もこのコーセルテルで伴侶と暮らしている者。
辿った道筋は様々だったが、その誰もに共通していたのが、戻るべき場所と、するべきことがあった・・・ということだった。しかし、今の自分にはそのどちらもない。
同族にも、竜術士にも・・・全てから見放され、たった一人で老い、死んでいく自分。アグリナの言葉は、その事実を鋭くナータの胸に突き刺すものだった。
(なぜ、おれだけが・・・こんな目に―――――)
目の前が、真っ暗になった気がした。
底無しの絶望と、やり場のない怒り。・・・何かが、頭の中で音を立てて切れる。
「この―――――」
思わず相手の胸倉を掴み上げかけて、ここでナータはハッとした。自分のことをじっと見つめる、アグリナの頬に一筋の涙の跡があるのに気付いたからだ。
「・・・済まない。おれが悪かった。」
「・・・・・・。」
乱れた息を整え、ゆっくりと手を離す。
胸元をぽんぽんと払ったアグリナが、気まずそうにそっぽを向いたナータに向かって、静かに語りかけた。
「あたしだって、平気なわけないじゃない? そりゃ、オヤジのときもマシェルのときも、辺り構わず大声で泣いたわよ。」
「・・・・・・。」
「愛する人間と死に別れて、悲しくない人間なんかいない。でもね・・・」
「・・・?」
縋るような眼を向けたナータに向かって、アグリナはにっこりと微笑んでみせた。
「仕方がないじゃない? そういう運命だったんだから。・・・だからあたしたちは、一緒にいられる時間を、うんと大切にする。精一杯、お互いの人生を生きて・・・別れの後も、いつまでも泣いたりなんかしない。大体、先に逝った人たちがそんなことを望んでいると思う?」
「人生を・・・大切に・・・」
「そうよ。・・・ナータ、あんたはどうだった? マシェルと一緒に過ごした時間を、大切にしていたかしら?」
「・・・・・・。・・・ああ・・・」
マシェルと暮らした、三十余年。その密度については、誰にも負けない自信がある。
ゆっくりと頷いたナータに向かって、アグリナが小さく肩を竦めてみせる。
「じゃあ、いいじゃない。それで充分よ。」
「だが・・・。・・・おれ、は―――――」
拳を握り締め、項垂れるナータ。次の瞬間、その体がぎゅっと抱き締められる。
驚いた顔になったナータの頭が、優しく撫でられる。
「な・・・アグリナ―――――」
「結局、あんたはあたしのことを・・・一度も母さんって呼んでくれなかった。」
マシェルとアグリナが結婚し、共に暮らすようになってから。ナータの弟妹竜たちの何人かは、義理の母となったアグリナのことを「母さん」と呼ぶようになった。そのことを知ってはいたが、ナータは頑としてその言葉を口にしないようにしてきたのだった。
「いいの。あんたにとっては、マシェルが父さんであり、母さんでもあった・・・ってところでしょう。」
「・・・・・・。」
「でもさ。一度くらい、あたしにも母親らしいことをさせてくれても、バチは当たらないと思うけどな。」
思えば、こうして抱き締めてもらうのは、いつ以来のことだろう。まだほんの子竜の頃の、おぼろげな記憶があるだけだ。その優しい感触に、たちまちのうちに大粒の涙が、ナータの頬を伝った。
「うっ・・・うぅ・・・」
人前で、涙は見せないようにしてきた。それは、マシェルの今際の際も例外ではなかったのだ。
長い間、抑え込んでいた感情。それを解き放ったナータは、頭一つ小さい相手に抱き締められたまま、ひたすらに啜り泣き続けた。その嗚咽は中央湖に谺し、静かに消えていく。