風邪をひいた日〜アルルの場合〜  1         

風邪をひいた日
〜アルルの場合〜


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「・・・っくしゅん!」

木竜の里、里長の執務室。一心に机に向かっていたアルルは、ふと身を起こすと大きなくしゃみを
した。
このところ、どうも体調が優れない。微熱に軽い頭痛、そしてくしゃみを初めとする鼻の不調がずっと
アルルを苛み続けている。初めて調子がおかしいと思ったのは、里に春の兆しが見え始めた頃だった
から、それがもう一月以上続いていることになるのだが・・・この日は朝からその“不調”がいつにも
増してひどくなっていたのである。

(参ったな、よりによってこんな日に・・・)

暗い顔で心なしか肩を落としたアルルの眼前・・・机の前に置かれている衝立の向こうで、人の
立ち上がる気配がした。ややあって、衝立の横から心配そうな顔が覗く。

「アルルさま・・・もしや、お風邪をお召しなのではありませんか?」

そう言いながら机の傍に立ったのは、里長であるアルルの補佐を務めている、ラフィーネという木竜
だった。アルルが里に戻ってからの付き合いなので、もう五年以上一緒に仕事をしていることになる。
笑顔を作ったアルルが、顔の前で小さく手を振った。

「ああ、フィー。ううん、何ともないよ。」
「しかし、アルルさまにもしものことがあっては・・・」
「そうかな。中には、躍り上がって喜ぶやつもいると思うけど。」
「ア・・・アルルさま! 戯言はおやめください。」
「戯言、ね・・・。ま、それはそれでいいじゃないか。そのときは、君につきっきりで看病してもらえる
わけだし。」
「アルルさま!」

アルルは、おどけた様子で肩を竦めた。しかし、相手が真剣そのものの様子であることに気付き、
小さく溜息をつくと表情を改める。

「五年ぶりに、家族と会えるんだよ? 誰かさんの差し金で皆に足を引っ張られて、仕事は溜まる
一方さ。その誰かさんの嫌味と嫌がらせに毎日必死に耐えて、もうこれ以上は無理ってくらい頭を
下げ続けて・・・やっとたった一泊の外出許可をもらったんだ。それをフイにはしたくないね。」
「アルルさま・・・その分はわたしが頑張りますから。アレン兄さまのことは、どうか・・・」

肩を竦めたアルルに、少し慌てた様子でラフィーネが言った。
“アレン兄さま”とは、現木竜族族長で、ラフィーネの兄であるアレンティーのことだ。
ユーニスが竜王の竜術士として宮廷に迎えられることになったとき。木竜族は、水竜族と共に種族と
しては中立の立場を明らかにした。これは、竜たちのまとめ役であった水竜グレーシスの実の弟で
あるククルの死・・・という複雑な事情のある水竜族とは違い、単に「お手並み拝見」といった種族柄の
思考パターンによるものであることは言うまでもない。
もちろん、これは種族としての立場であって、木竜個々人の人間に対する感情は様々だった。
ユーニスの木竜術の師となった長老のジルフェや、侍医長のパルムのようにユーニスやその
子竜たちに好意的な者がいる反面、逆に人間に対して不信感や警戒心を持つ者も存在した。
まだ若かった族長のアレンティーも、どちらかと言うとそうした一人だったのである。

「でも、アルルさまは確かに無理をされておいでです。わたし、アレン兄さまにお願いしてみます。」

(その気持ちはありがたいんだけどね・・・結局、それが“火に油を注ぐ”ことになってるんだよなぁ)

決然とした表情で言い切ったラフィーネの様子に、アルルは微かに苦笑いを浮かべた。
これでも、アルルが里に戻り里長になった当初は、二人の間はそれなりに上手くいっていた。人間、
そしてそれに育てられた相手のことを好きになれない。それが自分の個人的な感情であることは
アレンティーも自覚しており、お互い“公務”である族長と里長を務めている限りは、なるべくそれを
抑えよう・・・という姿勢があったからだ。
それが決定的に壊れてしまったのは、里長の補佐の役割を担うことになった妹のラフィーネが、里の
多くの娘たち同様アルルにすっかりのぼせてしまってからだった。目に入れても痛くない最愛の妹を、
あろうことか得体の知れない出戻りの相手に攫われてしまったのである。さらに、事あるごとに
ラフィーネがアルルのことを擁護するため、アレンティーのアルルに対する負の感情は日に日に
膨れ上がるばかり。
こうして、アレンティーは事あるごとにアルルに辛く当たるようになった。元来楽天的な性格の持ち主で
あるアルルは、そのこと自体をあまり気にしてはいなかったが・・・事実二人がこのような関係では、
里の円滑な運営に支障が出るのも当然だった。木竜族の間では、この「族長と里長の不仲」が大きな
問題になりつつあったのである。

「まぁ・・・だから、さ。今日は、多少無理しても出かけたい。・・・分かってくれるね?」
「・・・はい。」
「結構! じゃ、仕事の続きを頼むよ。もうすぐ、姉さんが迎えにくる時間だ。」

竜の里は、基本的に大陸各地に散らばっている。アルルの戻ることになった木竜の里は、ミガンティク
地方の中央に広がるリクシールの森の奥深くに位置し、竜都であるロアノークからは直線距離でも
二百リーグ以上の彼方にあった。東海岸に位置するミグラードからは竜都への船便も出ているが、
そこまで辿り着くのにさえ、徒歩では優に十日はかかる。これでは、とてもではないが一泊での
竜都との往復など覚束ない。
こうした事情からこの日、アルルは長姉である風竜のエリカに里の近くまで迎えにきてくれるよう、予め
約束を取り付けておいたのだった。エリカは普段、王国の監察官としてアミアン地方の中心都市
ユンガイナにおり、風竜術で竜都に戻る際には木竜の里付近を通ることになる。その途中で拾って
くれるよう頼んでおいたのだ。
ただし、各竜の里は基本的に他種族不入の地だった。竜医など少数の例外はあったが、それは
一介の監察官に過ぎないエリカにとっても同じこと。すなわち、アルルの方が早めに里から出て、
エリカを迎える必要があるのだった。

「これで・・・よし、と。」

最後の書類を書き上げてサインをすると、アルルは伸びをしながら椅子から立ち上がった。壁に
かけられていた上着を羽織り、この日のために用意した特製の「薬草」が詰められた鞄を手にする。

「いってらっしゃいませ。」

振り向いたアルルに、目を閉じたラフィーネが顔を寄せる。その唇に、アルルはそっと指を押し当てた。

「え・・・?」
「悪いけど、今日はそれはなし。君に風邪をうつしたら、それこそアレンに何されるか分からない
からね。」
「アルルさま・・・」

戸惑いの表情を浮かべていたラフィーネに向かって、アルルはにっと笑ってみせた。

「じゃね。明日には戻るから。」
「はい。道中のご無事をお祈りしています。」
「うん。ありがと。」

小さく手を振ったアルルは、執務室を出ていった。その後姿を、ラフィーネはほんのりと頬を染めて
見送ったのだった。


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