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天使のささやき


 −プロローグ− (真竜暦364年)

朝から降り出した雨は、午後に入って小降りになった。
しかし、そのことを気にかける住民は、もうこの村にはいなかった。
所々で、まだ薄く煙を立ち昇らせている建物の残骸。
まだ、武器が突き刺さったままの状態で放置された死体。
・・・今日、ここにあった村が一つ消えたのだ。
不作による飢饉の度に起こる、食料を巡る争い。その規模が大きくなれば、こうして村が丸ごと消えて
しまうこともあるのだ。だがこれも、土地や気候にあまり恵まれていない北大陸では、決して珍しい
光景ではなかった。

廃墟と化した村の中には、二つの人影があった。
緑の髪をした、まだ若い男女二人。
しばらくの間、周囲の凄惨な光景に目をやっていたそのうちの一人が、やがて下を向くと吐き捨てる
ように呟いた。

「全く。僕には、人間というものが分からないね!」
「急にどうしたの・・・エル。」
「向こうの人間は、みんな優しくていい人ばかりだったじゃないか。そうかと思えば、こうしてわずか
ばかりの食料を巡って平気で殺し合いをする人間もいる。・・・正直、僕にはどっちが人間の本性
なのか、分からないよ。」
「そうよね・・・。」

相槌を打った女性も、居たたまれない表情を浮かべた。

「こんな風に、人が死ぬところなんて・・・もう見たくないと思って、都を後にしたのにね・・・。」
「そうさ。・・・こんな季節に、わざわざ殺し合いしなくたっていいだろうにさ。」

ここで会話を打ち切った二人は、ゆっくりと村の中を歩き始めた。
雨のお蔭で、一時の猛火は収まっている。しかし、既に村の中からは動くものの気配は何一つ感じ取る
ことはできなかった。それでも、二人は諦めきれない様子でそこかしこに目をやるのだった。

「やっぱり・・・ここもダメなのかな。」
「うん・・・そうかもね。」

村外れまで来て、男性が小さく肩を竦めた。女性も残念そうに頷いたが、その表情は不意に驚きの
それに変わった。

「エル・・・ちょっと待って。」
「ん?」
「今、確かに・・・ほら、また!」
「・・・本当だ!」

耳をそばだてていた二人の元に、風に乗って微かに子供の泣き声が届いたのだ。
二人が駆け寄った先には、半分ほどが焼け残った一軒の家があった。声は、その床下に作られた
物置の中から聞こえていた。
雨が降らなければ、家と運命を共にするはずだった小さな命。思わず相手を抱き上げた男性の腕の
中で安心したのか、赤ん坊はやっと泣きやんだ。

「その子・・・どうするの。」
「どうするって・・・。」

しばらくして、女性が尋ねる。子供を抱き上げたまま、男性は困った顔をした。

「このまま放って置けるわけないだろう。・・・連れて帰るしかないさ。」
「でも・・・いいのかしら。だって、私たちは・・・」
「仕方ないよ。・・・ここには、もう生きている人間はいないんだ。この子の両親だって、多分・・・。ここに
置き去りにしたら、死ぬのは目に見えてるだろ。」
「・・・そうね。そうよね。」
「そうさ。」

頷いた二人の顔は、仕方なさそうなその台詞に反して嬉しそうに綻んだ。
村を後にすべく、再び歩き始める二人。相手の腕の中にある赤ん坊の寝顔を覗き込みながら、女性の
方が尋ねる。

「名前は・・・何にするの?」
「そうだなぁ・・・」


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