ずっとそばに
プロローグ
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エピローグ
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「ん・・・。」
いつものように自分のベッドで目を覚ましたフェルテは、頭をボリボリと掻くと一つ大きな欠伸をした。
久しぶりに見た、父が行方不明になった日の夢・・・何度見てもやはり気分のいいものではない。
ぼんやりした目で隣のベッドを見ると、既にその主は起き出した後だった。
(相変わらず早いわね・・・)
ベッドから降り立ったフェルテは、窓の前に立った。昨日までの嵐の余韻か、椰子の木の葉が大きく
揺れている様子が窓を通して目に入った。しかし、空には一片の雲もない。
絶好の漁日和になりそうだった。
「おはよう、ノア! 今日もいい天気になりそうね!」
台所の入り口にかかっている簾をくぐりながら、明るい声を出すフェルテ。ノアと呼ばれた水色の髪の
少年は、その声に振り向くとにっこりした。揃いの花柄を刺繍したエプロンとミトンがよく似合っている。
「おはよう。朝ごはんはちょっと待ってよね。」
「・・・いつも悪いね。」
「ううん。大体、フェルテに任せといたら何が出てくるやら・・・」
「こいつめ!」
「うわー、冗談だよ・・・ごめんって!」
フェルテはにやりとすると、ノアの頭を拳骨で小突いた。慌てたノアはミトンをはめた手でそれを遮ろうと
したが、その頭には小さな一対の“角”があった・・・そう、彼は人間ではない存在だったのだ。
痛そうに頭をさすりながら、ノアがフェルテに訊く。
「今日は? もう漁に出るの?」
「もちろんよ! 嵐の後は環礁にいる魚が増えるの、これを逃す手はないわ。」
「そう・・・でも、気をつけてよね。まだ波が荒いみたいだし・・・」
「もう、あたしが何年漁をしてると思ってるの!」
「そりゃまあ、そうだけどさ。」
「ま、外海には出ないように気をつけるわよ。・・・それより、今朝は何?」
「えっと、今日はね・・・」
フェルテが父の跡を継いで漁師になったのは九年前。ごく普通の海辺の村であるこのウロアでは、その
住民のほとんどが漁で生計を立てており、例え女性であってもフェルテが漁師になるのは何ら不思議な
ことではなかった。そして、ノアとの付き合いもそのときから始まったのだった。
最初は、ほんの冗談のつもりだった。母の遺した僅かな品物の中には、何の動物のものだか分から
ない大きな卵・・・そして「基本竜術」というタイトルのついた三冊の本があった。母の死後、何気なく本を
めくっていたフェルテは『竜人化術』の部分を見付け、「まさか」と思いつつも、興味の赴くまま見よう
見まねでその卵に向かって“命名の儀”を行ってみたのだった。もちろん卵には期待したような反応は
何一つ見られず、そのままこのことはフェルテの記憶の片隅に埋もれることになった。
そして一年後、父が漁に出たまま行方不明になった。「誰か、父さんを助けて!!」というフェルテの
強い願いか、あるいは「一人になるのは嫌!!」という恐怖心にか・・・どちらに反応したのかは定か
ではなかったが、そのとき居間に「母の形見」として飾られていた卵が突然弾け、後には小さな子供が
残されたのだった。・・・それがノアだった。
「そうだ・・・ちょっとこれ見てよ。」
「なによ。」
「へへ、やっと花を咲かせるのに成功したんだ。」
とノアが誇らしげに持ち出して来たプランターには、風鈴草が可憐な群青の花を咲かせていた。本来は
北方の花であり、南国アミアンでは普通ならば絶対にお目にかかれないものである。
「へえ・・・きれいじゃない。」
「うん。今日は誰かさんの誕生日だろ? これ、確か誕生花なんだよね。」
「え? まさか、あたしのために?」
「うん。」
「ありがとう! 感激だわ〜!!」
控えめながら胸を張るノア。そんなノアを、フェルテは力一杯抱きしめた。
「ほんと、苦労したよ〜・・・一日中部屋の中に置いてさ、陽に当てすぎてもダメだし当てなくてもダメ
だしさ。」
「結局二年かかったんだもんね。で、これ・・・どうしようかしらね。」
「花瓶にでも飾っておいたら・・・と思うんだけど、どうかな?」
「いいんじゃない? あ、でも・・・それを見るお客が来ないってのが残念かなあ。」
「そうだよ、フェルテにもうちょっと甲斐性があれば・・・痛ぁ!」
余計な一言を口にしたがために今度はフェルテに脛を蹴られるハメになったノアは、涙を浮かべ
ながらも健気に花瓶に風鈴草を活けにその場を離れた。
“ノア”というのは、一帯で崇められている水神の名前だった。漁に携わる者にとって、その加護を
得られるかどうかは自身の生命の安否に直接結びつくため、その信仰は篤い。アミアンでは、どの村
でも必ずそれを祭る祭壇があるのが普通だった。
そしてこのことが、ノアが村に受け入れられる要因にもなった。ノアが生まれた直後こそ周囲から白い
目で見られたものの、僅かではあるがノアに水を操る力があると分かると、村人たちは彼を神聖な
存在であると見なすようになった。そしてノア自身も嵐の襲来を告げることで村人たちの命を幾度となく
救った。
こうして、人間ではない存在であったにも拘らずノアは自然と村に受け入れられることになった。
超自然の現象を信仰の対象とする未開の地であったからこその幸運であると言えるだろう。
「ごちそうさま。それじゃ、行ってくるね。」
「気をつけてね。はい、お弁当・・・結果を期待してるからね〜。」
「まかせなさい!」
朝食を済ませたフェルテは、こうしていつものように家を後にすると村の中心にある桟橋へ向かった。
途中で振り返り、家の前で自分のことを見送っているノアに向かって笑顔で手を振る。
それは、ありふれたいつもの光景だった。