私の人生
プロローグ
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エピローグ
−2−
コーセルテル北端にある、暗竜術士の家。その場所を当代の木竜術士が訪ねてきたのは、午後も
半ばに差し掛かった頃だった。
心配そうな顔でついてこようとしたカレルを目で制すると、トトはトレベスを家の裏にある崖近くへと
誘った。トレベスが、二人きりになりたいという気配を示していたからである。
「それで、おれに何の用だ。」
「相変わらずそっけないな。ま、そこがいいんだけどさ・・・。」
二人で崖の上に並んで立ち、辺りの風景を眺める。コーセルテルを守る、険しい山々と深い谷。悠久の
時を刻んでも変わらぬこの景色は、その中で暮らす者たちを守り・・・そして、そのほとんどが元は外界
からの侵入者である竜術士たちをこの地に縛るものでもあった。
小さく笑ったトレベスが、僅かに俯いたようだった。その髪には、いつの間にか白髪が目立つように
なっている。
「竜術士と別れた竜の、気持ちを訊いてみたかった。」
「なんだと?」
「今コーセルテルにいる竜の中で、術士との別れを経験してるのはお前だけだろ。カランもリステルも
里に帰っちまってるし・・・。」
トレベスとは、妙に気が合った。
トレベスの一番の親友は、一昨年の暮れに死んだ水竜術士のヴィーカだった。しかし、家族同然の
木竜たちを除くと、最も親しい竜は恐らく自分だろう。互いに、自らの心を相手になかなか読ませないと
いう性格の持ち主である。それが、親近感を生み出したのかも知れない。
初めて顔を見たときの印象は、今でもはっきりと思い出すことができる。
小柄な身体と、それにそぐわない大きな存在感。向けられる視線、投げかけられる言葉のどれもが
鋭すぎる男だった。まさに、剃刀という形容が相応しかった。
そんなトレベスと自分が親しくなったのは、カレルの病がきっかけだった。木竜術士としてカレルを治療
する代わりに、トレベスは自らとのカード勝負を要求してきたのだった。
拒否することはできなかった。真剣勝負の末、トトは僅差でトレベスを打ち破ることに成功し、治療を
受けたカレルは無事に回復した。
「このコーセルテルで、こんなに強い奴と会ったのは初めてだ」と、破顔したトレベスはトトに言ったもの
だった。そして、それからは週に一度の割合でトレベスが暗竜術士の家を訪ねてくるようになった。
以来、トレベスとは「おれ、お前」で呼び合う付き合いが続いている。
「なあ、どうなんだ? お前も、育ての親とはずっと昔に別れたんだろ?」
「なぜ、そんなことを訊く。」
「・・・旅に、出ようと思ってさ。」
さりげなく、トレベスが言う。傍から聞けば、単に術士を引退し、コーセルテルの外へと移り住むことに
したのだと、誰もが思うだろう。・・・しかし、この木竜術士ともう長年の付き合いになるトトは、その
言葉に隠された真意をはっきりと読み取ることができた。
「・・・・・・。何があった?」
「今、俺は二人暮らしだ。遠からずこんな日が来ると思って、他の奴らは去年・・・里に帰したからな。」
「・・・・・・。」
「俺の補佐竜。名前が・・・思い出せなくなった。」
振り向いたトレベスの目には、諦めにも似た静かな光が湛えられていた。それを目にした瞬間、トトは
全てを悟った。もう、誰にもトレベスと止めることはできないのだと。
「竜の名を呼べない竜術士なんてな。それにこいつは、誰かさんの高所恐怖症とは違って・・・どう
足掻いても絶対に治らない。」
「そうか・・・。・・・惜しいな。」
「ありがとよ。そう言ってくれるのは、お前だけだ。」
くっくっと笑ったトレベスが、トトに物問いたげな視線を向けた。小さく頷いたトトが、考え考え話し
始める。
「そうだな・・・。おれの場合は、まるで世界の中心がなくなってしまったような気がした。おまえたち
人間で言えば、太陽が姿を消してしまった・・・そんな感じか。」
「何となく、分かるような気もするな。」
「母さんを故郷に帰そうと・・・言い出したのはおれだった。目の前の悲しみが薄れてくると、今度はその
事実がおれを苦しめる。・・・結局、立ち直るには何年もかかった。」
「ほう。・・・お前でも、そうだったのか。」
「しかしな。」
ここで、トトは興味深そうな表情を浮かべていたトレベスに向き直った。正面からその瞳をじっと
見つめ、静かに・・・しかし、はっきりと告げる。
「おれの場合は、母さんは死んだわけじゃなかった。いつかは会える日が来ると、そう信じることで
日々を乗り越えることができた。」
「・・・・・・。」
「だから。・・・術士と死に別れた竜の気持ちは、残念ながらおれには分からない。」
「・・・・・・。そうか・・・」
トトから視線を外し、トレベスはそれだけを言った。
二人が立つ崖を、初秋の爽やかな微風が吹き抜けていく。しばらくして口を開いたのは、トトの方
だった。
「余計なお世話かもしれんが・・・一つ、言っていいか?」
「何だ?」
「おまえがこれから何をしようとしているか、おれにはわかっているつもりだ。それについては、
おれには何も口を差し挟むつもりはない。おまえの人生だ、好きにしたらいいだろう。」
「・・・・・・。」
「だがな。おまえには、おれよりも身近な相手がいるだろう。・・・きちんと事情を打ち明けて、許しを
請うべきだ。」
「許しを・・・請う?」
「術士と別れるだけでも辛いんだ。それをおまえは、よりによってあいつにその手助けをさせるつもり
なんだろう。本来は癒しのためにある力・・・それも、元はと言えばおまえに教えられたものなんだぞ?
おいそれと、割り切れるものか。」
「・・・・・・。」
「何より、あいつはおまえのことを父として・・・あるいは、一人の女として慕っているんだ。少しでも、
その気持ちに応えてやる義務が、あいつの術士だったおまえにはあるはずだろう。」
「・・・もし、俺が否と言ったら?」
「力ずくでも、ここから帰さない。おまえの無惨な最期を、皆で見届けてやることにするだけだ。」
「・・・流石だな、トト。それでこそ、俺の好敵手だ。」
破顔したトレベスが、トトに手を差し出した。
「長い間、世話になった。・・・お前の忠告は、肝に銘じることにしよう。あいつには、全てを包み隠さず
話すことにするよ。」
「そうだ。それでいい。・・・あいつも竜だ。術士との別れが避けられないことくらい、わかっているさ。」
「だといいがな。・・・じゃあ、俺は帰ることにするかな。」
踵を返したトレベスを、トトは呼び止めた。
「待て。おまえの家までは、おれに送らせてくれ。」
「ん? 別に、そこまで気を遣わなくたって・・・」
「また途中で迷子になられてはかなわないからな。・・・おまえも、人生の幕引きに無様な姿は晒したく
ないだろう?」
「こいつ・・・言ってくれるぜ。」
苦笑したトレベスと肩を並べ、トトはゆっくりと歩き出した。暗竜術士の家から木竜術士の家までは、
およそ一時間ほどの道のりだ。そして、この道を二人で歩くのも、これが最後になる。
「心残りと言えば、結局お前との勝負をつけられなかったことかな。対戦成績、五分のまま
だったよな?」
「ふん。つまらないことは、よく憶えているんだな。」
「最後に一勝負とも思ったんだけどな。勝ち逃げするのも悪いから、それはやめたよ。」
「憎まれ口ばかりだな。もう少し、殊勝な言葉は出てこないのか?」
「はは。ま、大目に見てくれよ。・・・その憎まれ口も、今日で利き納めなんからさ。」
「こいつ・・・」
全て分かった上で、トレベスは喋っているのだった。衰えた今の自分の頭では、何をしてもトトには
敵わない。・・・しかし、そのことをわざわざ指摘するほどトトは野暮ではなかった。
「俺が言うのもなんだが・・・お前も、達者で暮らせよ。」
「ふん。おまえに言われなくても、そうするさ。」
「そうか。いや、そうだよな。・・・俺も、随分と間抜けなことを言ったもんだ。」
他愛のない言葉を交わしながら、まだ随所に夏の色を残すコーセルテルの中をのんびりと歩く。
道すがら、トレベスは感慨深そうに周囲に目をやっていた。まるで、この「第二の故郷」の景色を
その目に焼き付けようとしているかのように。
木竜術士の家が遠目に見えてきたところで、トトは足を止めた。
「ここで、いいだろう。」
「ああ。・・・色々、ありがとよ。」
「リアのことは、心配するな。おれが、支えになる。」
「そうか・・・。あいつ、リアって名前なのか。」
トレベスに背を向けたトトは、束の間立ち止まった。ぽつりと呟いたトレベスに向かって、諭すように
言う。
「呼んでやれ。今夜は、何度でも・・・リアが望む限り。」
「ああ・・・。そうだな。」
「・・・さらばだ。」
別れた二人が、別々の方向に歩き出す。
後ろは、振り返らなかった。