MOON RIVER  1             

MOON RIVER


 −1−

地竜のノルテは、自室の窓の前に立っていた。
時刻は、既に深夜にさしかかろうとする頃。部屋に灯りはなく、仄かな雪明かりに照らし出されたその瞳には、暗い影があった。
窓の外は、一面の銀世界だった。コーセルテルでも雪が降ることは珍しくないが、こうして連日の吹雪に見舞われることは、滅多にないことだった。この分だと、他の竜術士たちや、幻獣人たちはさぞかし苦労しているに違いない。
恐らく、今年コーセルテルに駐留している冬軍の部隊が、張り切っているのだろう。一昔前の自分であれば、駐屯地まで出向いて直談判をしたかも知れない。
カタカタと、窓が微かに音を立てる。また少し、風が強まってきたようだ。

アリシアが死んだのは、三年前のやはり冬のことだった。
生来の吃音症のため、小さい頃から自分は里の皆に蔑まれてきた。いつしか、声を出すこと自体を避けるようになり、心すらも閉ざした自分。そんなひねくれ者を扱いかねたのか、やがて自分は厄介払いのような形でコーセルテルに送られ、そこで地竜術士になったばかりのアリシアと出会うことになった。
アリシアは、こんな自分もありのままで受け入れ、愛してくれた。
生まれて初めて与えられる、掛け値なしの愛情。そうした経験は皆無だった自分は、戸惑いから当初は素直にそれを受け入れられなかった。見せ付けられる冷たい態度に、アリシアも随分思い悩んだのだという。
しかし、アリシアは諦めなかった。そして、最終的には自分も変わることができたのだ。

その、自分にとって最大の“恩人”とでも言うべき相手の死は、思っていた以上の衝撃だった。その衝撃から立ち直れないでいるうちに、更なる過酷な現実に、自分は打ちのめされることになった。
アリシアが預かっていた地竜は、自分を含めて四人だった。三人の妹たちには、アリシアの葬儀が終わるのを待ちかねたように、それぞれ里から帰還を命じる手紙が届いた。笑顔で妹たちを送り出しはしたものの、自分の心のうちは猜疑の念で一杯だった。

―――――何故、自分だけがここに残らなくてはならないのか。

無論、術士の死後、次の術士候補が現れるまでその家を守る、という大義名分はあった。それは、補佐竜であった自分が務めるに相応しい役割であるような気もする。
しかし、それならば何故、里から正式な依頼の手紙が来ないのか。代わりに両親から、無理に里に戻りたいと言わず、いずれ来る機会を待って辛抱するように、と諭すような手紙が来たのはどうしてなのか。・・・やはり、自分は里の皆に避けられているのではないか、と思わざるを得なかった。
自分のことを本当の意味で理解し、受け入れてくれた相手は、アリシアしかいなかった。自分がそのことを思い知らされるまでには、そう長い時間はかからなかった。

妹たちが去った家は、自分ひとりで暮らすには広過ぎた。アリシア存命中には、休暇の度にここに顔を出していた夏の精霊テーセウスも、その死後姿を見せることはなくなった。・・・当然と言えば当然なのだが、あの頃は裏切られた気がしたものだった。
何をするでもなく過ぎる時間、募る一族への不信感。抱えた不安と苛立ちは、一生を捧げると誓った武術の修行に打ち込むことで、幾分かは発散させることができた。
かつて、夏の精霊セレネに直に手解きを受けた自分の武術の腕前は、今や代わるがわるコーセルテルに駐留する、どの季軍の実践経験豊富な精霊にも引けをとらないまでに上達した。近年ではその噂が伝わっているのか、各季軍の跳ね返りの新兵の挑戦を受けることもしばしばだった。その全てを完膚なきまでに叩き伏せ、その性根を据え直すことで自らの武術が幾許かでも役に立っているかと思うと、悪い気はしなかった。

(・・・・・・)

ここで振り返ったノルテは、部屋の隅に立てかけてある大剣に目をやった。それは今から九年前、死に際して水竜術士ヴィーカから託されたものだった。
自分が初めて剣の手解きを受けた相手であるヴィーカは、かつて「斬馬のヴィクトール」の通り名を持つ、北大陸でも歴戦の将軍だったという。その彼からは、武術を窮めるに当たって、様々なことを学んだ。それは今でも自身の根幹を為すものであり、ヴィーカから一時引き継いでいた少年竜たちの剣術指南の際に、折に触れて語るようにしていたことだった。
自分が武術の道を志したきっかけは、アリシアや妹たちを守るために、知恵以外の力―――――文字通りの“力”―――――が必要ではないか、と考えたことだった。その気持ちは、今も変わりはない。知恵のみで自分たちの身を守り通すことが至難の業であるのは、歴史を少し紐解くだけでも容易に知ることができる。
しかし、自分が身に付けた武力を、本気で揮ったことはなかった。もしもの際に、アリシアや妹たちを守れるようにと鍛錬を積んだ武術は、アリシアを病から守ることはできなかった。

思えば地竜族は、元来知恵を重んじる一族だった。武力は野蛮なものと見做され、それを蔑視する風潮が殊更に強い種族なのである。そんな中にあって、自分のように武術に生涯を捧げる生き方は、異端視されて当然ではないかという気もする。
そしてそれは、自分だけが里に呼び戻されず、コーセルテルに留められたことと無関係ではないはずだ。長老たちは、里の若い竜たちが自分に影響され、武の道を志すことを善しとしなかったのだろう。
守長として、誰よりも皆を確実に守ることができる、という自信はあった。しかし、その場は与えられないままだった。そしてそれは、恐らく今後も変わることはないのだろう。

アリシアが死んでからの三年間は、終わりのない自問自答の毎日だった。
今や、誰からも必要とされず、帰る場所もなくなった自分。そんな自分が、これからも生きていく価値は、果たしてあるのだろうか。
辿り着く答えは、いつも同じだった。・・・そのようなものは、あるはずがない。
一人きりで過ごし、他人と言葉を交わすことすら稀な無味乾燥な日々。その中にあって、この自問自答に決着を付けたいと思う気持ちが、日増しに強まってきていることに、ノルテは気付いていた。

(・・・・・・!)

小さく溜息をついたところで、不意に小さなノックの音が聞こえた気がした。自室のドアの方を振り向いたノルテは、そのままの格好で耳を澄ました。しんと静まり返った地竜術士の家に、窓を震わせる吹雪の音がやけに大きく響く。

(気の、せい・・・?)

コーセルテルでは、日没後に外出する住民の姿を見ることは、極めて稀だった。ましてや、このような悪天候なのである。
きっと、先程聞こえたと思ったノックの音は、自らの心の葛藤から生じた幻聴―――――“生きたい”と願う自分の心が生み出したもの―――――だったのだろう。
微かに苦笑を浮かべたノルテが小さく首を振ったとき、またしてもノックの音が聞こえた。

「・・・・・・。」

どうやら、本当に誰かがこの家を訪ねてきているらしい。だとすれば、余程の緊急事態に違いない。表情を引き締めたノルテは、テーブルの上に置いてあったランプを灯すと、それを手に階下への階段を下りていった。
玄関の扉を開け、ランプを翳す。その光に照らし出された相手が、ぴんと背筋を伸ばすとノルテに向かって一礼した。

「このような時間に、誠に申し訳ございません。こちらは、地竜術士殿のお住まいでしょうか?」
「・・・・・・。」

アリシアは、もういないけれど。
ノルテが頷くと、吹雪の中直立していた相手がにこりと笑った。
外見は、まだ若い女性だった。人間で言えば、二十歳を三つか四つ超えたくらいだろうか。しかし、その堂々とした立ち振る舞いからは、相手は日頃からこうした役割に慣れていることが窺えた。

「ああ、良かった。・・・これは申し遅れました。私の名は、カリスト。夏の精霊王セレネの、従者の筆頭を務めている者でございます。」
「セレネ、さんの・・・。」
「はい。本日は、地竜のノルテ様に、我が王からのお手紙をお届けに参った次第でございます。・・・ノルテ様は、何処にいらっしゃるかご存知でしょうか?」
「・・・・・・。ノルテは、私ですが。」
「これは、知らぬとは言え、大変な不調法を致しました。どうか、ご無礼をお許しください。」

ノルテの言葉に、カリストと名乗った夏の精霊が、真剣な表情で頭を下げた。相手の真摯な瞳に戸惑いを覚えつつも、ノルテは玄関の扉を大きく開きながら言った。

「・・・どうぞ、中へ入ってください。」
「寛大なお言葉、感謝致します。・・・では、失礼致します。」

カリストを家に招き入れ、客間へと案内する。勧められた椅子を固辞したカリストが、一礼するとノルテに向かって微笑みかけた。

「ノルテ様のご配慮に、御礼申し上げます。我ら夏の精霊にとって、この寒さはやはり身に堪えます。」
「・・・・・・。その、“様”はやめてくれませんか。」
「いえ、そうは参りません。我が軍が誇る近衛隊、アリゼ・マリティムの副頭首にして無双の武人であらせられるノルテ様にご無礼を働いたとあっては、私は我が王に合わせる顔がございません。」

きっぱりと言い切るカリストに、ノルテは思わず顔を赤らめた。
かつて、自分のことをこれ程までに認めてくれた相手が、アリシア以外にいただろうか。

「それで、お手紙というのは・・・?」
「はい。こちらでございます。」

差し出された手紙を受け取り、ノルテはその封を切ると中身に目を走らせた。
手紙の内容は、簡潔だった。自分が夏の精霊王として即位して、今年で十年になる。そんな折、テーセウスからアリシア殿が亡くなったことを耳にした。さぞ、気を落とされていることだろう。そこで、自分も是非ノルテ殿をお慰めしたく、夏の都まで来てもらいたい。このことは、以前コーセルテルを訪れた際に約束したことでもあり、遠慮は無用である。・・・概略このようなものであり、最後に追伸として、愛用の武器を携えて来られたし、との一文が付け加えられていた。

(・・・・・・)

読み終わった手紙を手にしたまま、しばらくの間ノルテは宙を見つめていた。
アリシアが死んだ際、その恋人だったテーセウス宛に、自分は手紙を送っている。そのときにセレネへの報告もされたはずであり、何故三年も経った今になって、このような誘いの手紙を送ってきたのだろうか。
また、冬は当然ながら冬軍の管轄する季節である。他の季節の精霊にとってその気候が厳しいことは言うまでもなく、その上冬軍に発見され、不審者として追われるようなことになれば、最悪命を失う危険性もあるのだ。何故、そのような時期にわざわざ使者を、それも大切な自分の従者の筆頭を寄越したのか。
最後の一文も、気になる部分だった。今回の訪問は、手紙の内容をそのまま受け取るならば、自分に対する慰撫が目的であるはずだった。そのような場に、果たして武器が必要なものなのだろうか。まさか、武器を執っての試合が自分の気晴らしになるなどと、武術に対する自分の考えを知っているはずのセレネが考えたとも思えない。
疑問に思うべき点は、たくさんあった。しかし、そのときノルテが考えていたのは、全く別のことだった。
今や夏の精霊王となったセレネは、自分の術士であったアリシアと瓜二つの外見をしていた。季節の精霊は、人間より長命である。以前会ったのはもう二十年以上前のことだが、恐らく今もセレネは、アリシアの若かりし頃と寸分違わぬ容姿でいるはずだった。

(今、夏の都に行けば・・・)

そうだ。死んでから三年経った今まで、一日として忘れることのなかった最愛の術士・・・その懐かしい“面影”に、再会することができるのだ。手紙を握り締める両手に、知らずしらずのうちに力が籠もる。

「いかがでしょうか、ノルテ様。」
「!」

自らの思い付きに魅了され始めていたノルテは、カリストの声に我に返った。読み終わった手紙を丁寧に折り畳みながら、その場に膝をついて自分を見上げていたカリストに向き直る。

「ご用の向きは、分かりました。・・・お返事は、あなたに?」
「はい。・・・我が王の許へと、お出ましいただけますでしょうか。」
「・・・・・・。」

ゆっくりと頷くノルテ。食い入るような視線を向けていたカリストが、ここでぱあっと顔を輝かせた。

「お聞き届けいただき、心より感謝致します! さぞや、我が王もお喜びになられることでしょう。・・・これで、私も使者としての任を果たすことができます。」
「それで、向こうへは・・・いつ?」
「はい。大変恐縮ではございますが、今すぐに出立させていただければと存じます。何分、この時期は冬軍の警戒が大変厳しゅうございまして・・・。」

(やはり、そうなのね・・・)

カリストの言葉に、ノルテは心の中で小さく頷いた。
この悪天候の中、深夜に遠路はるばるコーセルテルまで使者を送るということ自体、そもそもおかしいのだ。その上、同行を承諾するや否やこちらの都合にはお構いなしで、今すぐの出発を要求するなど、常識では全く考えられない。
どうやら、夏の都は余程深刻な事態に見舞われているらしい。そしてそれは、手紙から察するに恐らく“武力”に関するものなのだろう。だからこそ、セレネはこうして自分に助けを求めてきているに違いない。

「武器の他に・・・必要なものは?」
「では、お手数ですが、こちらをお召しいただけますでしょうか。夏の都は基本的に他種族不入の地でございまして、地竜の服装はあまりにも目立ち過ぎます。ああ、無論寒さを防ぐ工夫も施されておりますので、道中の天候へのご心配はご無用です。」
「・・・分かりました。」

あまりにも無礼であると、相手を追い返すのは簡単だった。急過ぎる話だと、ひとまず断ることもできた。しかし、手紙を読んだその瞬間から、ノルテは夏の都への訪問を心に決めていた。
夏の都に行けば、この牢獄のような毎日から解放される。何より、夏の都には自分を必要としてくれる相手がいる。そのことがただ、心から嬉しかったからだ。
夏の都で、どのような事態が自分を待ち受けているかは分からない。しかし、自分は自分の全力を尽くすだけだ。

(よし・・・行こう)

夏の精霊特有の煌びやかな軍装を身に付け終わり、大剣を手にしたノルテは小さく頷いた。その姿を前に、カリストが声を震わせる。

「ノルテ様・・・お綺麗でございます。我が王と並んでも、全く遜色はございません。」
「ありがとう。・・・さあ、行きましょう。」

連れ立って、家の外へと出る。玄関の扉に、しばらく不在にする旨の書き置きを掲げたノルテは、束の間地竜術士の家を見上げた。もしかしたら、もうここに戻ってくることはないかも知れない。そんな感傷に、ふと襲われたからだった。

「では、参ります。しっかりお掴まりください。」
「・・・・・・。」

ノルテを背負ったカリストは、その場にふわりと浮かび上がると、吹雪を衝いて一路南東へと向かった。目的地は、コーセルテルから七十リーグ(約三百四十キロメートル)以上の彼方にあった。


MOON RIVER(2)へ