MOON RIVER
1
2
3
4
5
6
7
−5−
「ん・・・。」
天幕を通して差し込む光に、夏軍第三頭のチヌーク頭首アレスは目を覚ました。ゆっくりと上体を起こすと、周囲を見回す。どうやら、陽は既に高く昇ってしまっているらしい。
自分たちがここに滞陣を始めてから、もう三ヶ月近くになる。部下の中には、長引く野営に不満を漏らしている者も多かった。そういった意味では、そろそろ事態に決着を付け、夏の都に戻る潮時かも知れない。
「・・・アレスさま?」
「悪ィ。起こしちまったか?」
不意に、傍らから聞こえた可憐な声。ややあって寝具から顔を覗かせた相手に、アレスは目を向けた。
歌姫エリス。類稀なる美貌と、鳥獣すら手懐けると言われた清らかな歌声の持ち主である彼女は、かつて夏の都の精霊たちの注目を一手に集める存在だった。そんなエリスをアレスが見初め、当時の夫から武術勝負の末に奪ったのが、今から半年前のことだった。
以来、エリスはアレスの正妻として、貞淑に仕えてくれている。また同時に、彼女の存在は法典反対派の精霊たちにとって、その精神的な拠り所の一つでもあった。
「なあ、エリス。お前、オレの妻になって、幸せか?」
「まあ。・・・アレスさま、急にどうなさったのですか?」
しばらくの間、黙って考える風だったアレスが、やがてぽつりと呟いた。その意外な問いかけに、アレスの髪を指で梳いていたエリスが驚いた顔になる。
「お前だって、例の法典のことは知ってるだろ? もし、あれが正しいってことになるんなら、オレは罪人で、お前との結婚も無効になる。・・・他の事はともかく、お前を失うなんて、オレにはとても我慢できなかった。だから、ヘリオスの奴に付き合って、こうして叛乱に加わったんだけどよ。」
「アレス、さま・・・。」
「そういや、お前の気持ちは聞いてなかったと思ってさ。・・・本当のところは、どうなんだ? やっぱり、オレを恨んでるのか?」
「・・・・・・。前の夫は思慮深い方でしたが、武力には恵まれておりませんでした。・・・アレスさまのような、武勇の誉れ高い方に見初められて、わたくしは幸せでございます。わたくしも、前の夫の許へと戻る気はございません。」
「こいつめ。嬉しいことを言ってくれるぜ。」
「あッ、アレスさま! もう、陽も高うございます。どなたかが―――――」
「何、構うこたあねえよ。見せ付けてやりゃあいいさ。」
にやりと笑ったアレスが、言うや否や抱き寄せたエリスの唇を奪う。天幕の外から慌てた様子の声がしたのは、その瞬間だった。
「アレス様! アレス様、お目覚めですか!?」
「んだよ、これからって時に。・・・おう、起きてるぜ。」
舌打ちをしたアレスが、大声を出す。天幕の中に入ってきたのは、アレスの腹心の部下の一人であるダイモスだった。
「てめえ、ダイモス。いいところで邪魔しやがって。今日の調練、覚悟しとけよ。」
「それどころじゃないんですよ、アレス様! 都から、使者が来てるんですが―――――」
「あー? んなもん、今まで通り適当に相手して追い返せよ。」
「はい。そうしようとしたんですが、これがまたえらく腕の立つ奴なんです。うちの兵も、もう何人もが返り討ちに遭っちまってまして。」
「へえ・・・そりゃ面白え。一体、誰が来たってんだ? まさか、セレネ王本人か?」
「いや、違います。使者は、新しいアリゼ・マリティム頭首、ノルテと名乗ってるんですが・・・。」
「ノルテ? 聞かねえ名前だな・・・。・・・ってオイ、そりゃまさか、例の“双璧”ってことか?」
「はあ。そう・・・なりますか。」
「ますます面白え!!」
にやりと笑ったアレスは、膝をぴしゃりと打つと寝台から立ち上がった。手早く身支度を整えると、愛用の夏軍八槍の一つ“ノトス”を手にする。
「悪ィな、エリス。ちっと様子見てくるわ。」
「はい、アレスさま。どうか、お気をつけて。」
「おう。お前は、まだ寝てていいからよ。」
心配そうな表情になったエリスの頭をぽん、と叩く。天幕の外に出たアレスは、眩い陽光に眼を細めると、ダイモスの後に従って歩き始めた。
「で、お前の目から見て、どうだよ。」
「正直、俺じゃ勝てる気がしません。多分、フォボスでも無理でしょう。」
「へえ・・・自信家のお前にしちゃ、珍しく弱気じゃねえか。」
「アレス様も、自分の眼で確かめてください。俺だって、自分でも信じられないくらいなんですから。」
ダイモスに向かって軽口を叩きながらも、アレスは頭の中で、未知の相手について思いを巡らせていた。
夏軍の中でも、特に自分の率いるチヌークの兵の強さは有名だった。その自慢の兵を、悉く返り討ちにできるような手練れの心当たりは、セレネ王自身を除けば今の夏の都にはない。何せ、夏軍八頭の頭首のうち、腕が立つ順に三人がこうして離反しているのだ。残りの五人に同時に打ち掛かられたとしても、一人でそれを返り討ちにできる自信が、アレスにはあった。
だとすれば、一体相手は何者だろうか。もしかすると、窮地に立たされたセレネ王が、都の外から呼び寄せた“助っ人”の可能性もある。
それならそれで構わなかった。自分はただ、死力を尽くして戦える相手がいれば、それでいい。ノトスを握り直したアレスは、来るべき強敵との戦いを思い浮かべ、にやりと笑った。
「ほら、あれです。」
足を止めたダイモスが、振り返ると苦虫を噛み潰したような顔で前方を指差した。
駐屯地の入り口に設けられた木戸の前で、件の使者を叛乱軍の兵士が十重二十重に取り巻いていた。今しも、使者に向かって飛び掛っていった兵士が二人、瞬く間に突き倒される。その様子を目の当たりにしたアレスは、思わず口笛を吹いた。
「なーるほど。ありゃ確かに、お前らが束になっても敵う相手じゃねえな。・・・よし、オレが出る。お前は、他のヤツらに手を出すなって伝えてこい。」
「はいッ!」
一礼したダイモスが、駆け出していった。しばらくして、木戸のところに辿り着いたアレスは、兵士の人垣を掻き分けるようにして前に出ると、改めて使者と正面から向かい合った。
(こいつは・・・)
まず、眼に惹かれた。氷のように冷静なその眼差しは、周囲を夏軍最強との呼び声高いチヌークの兵にびっしりと囲まれてなお、いささかも揺るがない。恐らく、余程の胆力の持ち主なのだろう。
もちろん、その身のこなしにも全く隙はなかった。今も、ただ立っているように見えながら、どこから斬り掛かられてもそれに瞬時に対応できる柔らかさが見える。立て続けに何人もの兵の相手をしていたはずだが、息一つ上がっていない。
武器も、夏軍では見慣れない剣だった。夏の精霊たちが好んで使用する槍に対して、間合いで劣る分、剣はどうしても不利だった。それをどう克服しているのかにも、興味がある。しかも、相手はまだその剣を鞘から抜いてさえいないのだ。
これは、思った以上の勝負が愉しめそうだ。心の中でほくそ笑んだアレスは、一歩進み出ると相手に向かって声をかけた。
「待たせたな。オレが、チヌーク頭首のアレスだ。で、あんたは?」
「お初にお目にかかります。アリゼ・マリティム頭首の、ノルテと申します。本日は、セレネ王の名代として、こちらに参りました。ヘリオス殿に、お目にかかりたいのですが。」
「待て待て、そう慌てんなよ。・・・オレの記憶が確かなら、近衛隊の頭首はセレネ王が兼任してたはずだ。あんた、何者なんだ?」
「はい。以前は、副頭首に任じられておりました。セレネ王の招きで都へ参り、正式に頭首に任じられたのは、つい昨日のことです。」
「なーるほど。道理で、あんたの名前に聞き覚えがねえわけだ。・・・ってことは、何か。やっぱりあんたは、夏の精霊じゃねえんだな?」
「・・・・・・。それは、使者を務めるに当たり、不都合なことですか?」
「いや。オレは別に、あんたが夏の精霊であろうがなかろうが、どっちでもいいんだ。でも、他のヤツはどう思うかな?」
「それは、どういう意味ですか?」
にやりと笑ったアレスが、わざとらしく肩を竦めてみせる。
「簡単な話さ。名前も聞いたことがねえヤツがいきなりやってきて、王の名代だと抜かしやがる。しかもそいつは、仲間の夏の精霊ですらねえ、得体の知れねえヤツなんだぜ? ハイそうですかって、あんたなら上官のところへ案内できるかい?」
「・・・・・・。では、私にどうしろと?」
「オレと、この場で立ち合ってくれ。オレも、武人の端くれだ。戦ってみれば、相手が信頼できるヤツなのかくらい分かるさ。」
「・・・アレス殿。貴殿程の武人が、一目で相手の実力を見抜くこともできないと・・・そう言われるのですか?」
「いいじゃねえか、固えこと言うなよ。・・・んじゃ、こうしようぜ。もし、あんたが勝ったら、オレが責任を持ってヘリオスに会わせる。何なら、降参しろってヘリオスに口添えしてやってもいいぜ。」
「・・・では、貴殿が勝った場合は?」
「そりゃ、決まってるさ。あんたはオレの女になる。・・・どうだい? 悪くない条件だろ?」
「・・・・・・。分かりました。男に、二言はありませんね。」
「おっしゃ。そう来なきゃな!」
仕方なさそうに溜息をついた相手が、持っていた剣をその鞘から抜いて構える。次の瞬間、相手の全身から噴き出した殺気に、アレスは全身に鳥肌が立つような恐怖を味わうことになった。
(くッ・・・!)
自分に向かって、ひたと据えられた視線。そこに見えたのは、純粋な殺意だけだった。
最初の一歩が、踏み出せない。迂闊に動けば、相手は容赦なく踏み込んでくるだろう。そして、自分は間違いなく斬られることになる。
こめかみから頬へと伝わった汗が、顎先から地面へと滴り落ちていく。ノトスを構えたまま、アレスは必死に自らの呼吸を数えていた。九まで数えたところで、また一に戻る。
そんなことを、どれだけ繰り返しただろうか。
不意に、相手の影が動いた。
それはまさに、“影”と表現するのが相応しい動きだった。あっと思った瞬間には、もう剣を手にした相手の姿は眼前にあった。
(ちぃッ!!)
即座に反応できたのは、長年戦場で修羅場を潜ってきた賜物だろう。
斬り込んできた相手とは反対側に飛び退りながら、ノトスの穂先を繰り出す。手応えを感じるのと、首筋を熱いものが掠めるのはほぼ同時だった。
そのまま擦れ違い、相手との位置が入れ替わる。振り向いたアレスは、慌てて自らの首に手をやった。
もし、自分の動きが一瞬でも遅れていたら。相手の剣は、間違いなく自分の首を刎ねていただろう。・・・このまま勝負を続けたら、その結果は明白だった。
「参ったよ。・・・オレの、負けだ。」
「ア・・・アレス様!? まだ、勝負はこれから―――――」
「さっき言ったろ。この勝負の目的は、命の遣り取りじゃねえ。つーか、このまま続けたらオレが死ぬわ。」
ノトスを退いたアレスは、万歳をするようにその両手を挙げた。駆け寄ってきたダイモスに向かって、苦笑いをしながら首を振る。
「・・・しっかし、いそうもない武人が、世の中にはいるもんだな。なあ、あんた。」
「ノルテです。・・・それでは、アレス殿。約束通り、ヘリオス殿に取り次いでいただけますね。」
「おう。ダイモス、ヘリオスの天幕まで連れてってやってくれ。」
剣を鞘に収め、何事もなかったかのように自分に歩み寄ってきたノルテを、アレスは眩しそうに見つめた。
「ノルテ。・・・またいつか、オレと立ち合ってくれるか?」
「・・・・・・。あなたとは、戦いたくありませんね。」
「―――――ッ!」
ふっと微笑むノルテ。思わず赤くなったアレスは、ダイモスに連れられて去っていくノルテの後姿を、多くの兵たちと共に見送ったのだった。