WINTER WONDERLAND〜冬の都へようこそ!〜  1             

WINTER WONDERLAND
〜冬の都へようこそ!〜


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雪山の夏は短い。
世界最高峰にして、“霊峰”と謳われるエルウィーズ山。頂上まであと一息のところで、息を整える
ために立ち止まったミズキは、振り返ると麓の方を見下ろした。
ミズキがベースキャンプを発ったのは一昨日の朝。前日の夜から降り始めた雪が、猛烈な吹雪に
なった中での出発だった。しかし、そこから吹雪を衝いてほんの一リッジも登れば、そこからは雲一つ
ない晴天が広がっていることをミズキは知っていた。そして、それが彼女に対する人知れぬ“合図”で
あることも。
ベースキャンプ付近は、相変わらず濃い雲に覆われている。他の登山者たちは、あれからずっと
吹雪に閉じ込められているのだろう。結果的に、現在エルウィーズを登っているのはミズキだけいう
ことになる。

(毎年・・・ちょっとやり過ぎなのよね)

束の間苦笑したミズキは、表情を引き締めると視線を山の頂へと戻した。
頂上までは、凡そ残り二リッジほど。所々に四十度を超える傾斜のある斜面もあり、少し気を抜けば
そのまま標高の半分近くを転がり落ちることになる。遠景からの霊峰エルウィーズの姿を優美に見せて
いるこの最後の斜面が、古来より幾多の登山家の挑戦を阻んできたのだった。

(・・・行こう)

しばらくの間、頂上の方を見つめていたミズキは、やがて小さく頷くと斜面を一歩一歩登り始めた。
標高は優に三万リンクを超えている。空気は極度に薄く、肌を突き刺す寒気と甘美な眠気が追い
討ちをかける。すぐに目が霞み、胸はふいごのようだった。

(く・・・苦しい・・・)

いくら息をしても、空気が肺に入って来ない。そんな錯覚に苛まれながらも、歯を食いしばりながら足を
前に出す。一リンクでも、半リンクでもいい。どこまでも尽きないように思えるこの斜面にも、やがて必ず
終わりが来る。
こうして、必死の思いで斜面を攀じ登っているとき・・・ふいに何もかも投げ出してしまいたくなることが
あった。このまま少し体重を後ろにかければ、間違いなくそれは果たされる。
今すぐ、楽になれるのだ。頂上に近付き、斜面の傾斜が急になるにつれて・・・その考えはいっそ
魅力的にも思えてくる。

(これが・・・“自分に負ける”ってことなのかしら・・・)

十三年前の夏。結婚直後、最後の挑戦にすると約束したエルウィーズ登山を前に、夫は笑顔で
ミズキに言った―――――「登山ってのはな、自分と戦うものなのさ」と。そして、二度と戻らなかった。
それならば、夫は彼自身との戦いに負けたということになるのだろうか。

(・・・着い、た・・・)

最後の急斜面を何とか登り切ったミズキの前に、霊峰エルウィーズの頂上が姿を現した。そこは二十
リンク四方ほどの平らな場所で、片隅には子供の背丈ほどの岩が突き出している。
息も絶え絶えになっていたミズキは、手にしていたピッケルをその場に突き刺すと、背負っていた
ザックを放り出し、そのまま大の字になって雪の上に身を投げ出した。雪盲防止のために着けていた
ゴーグル越しに、太陽の光が眩しい。
ここは、いつも信じられないほど静かだった。
高い山の頂上では想像を絶する強風が吹き荒れるのが普通なのだというが、ミズキがここを訪れ
続けた十数年の間、風らしい風が吹いていた記憶もない。
これも、“霊峰”と呼ばれる山ならでは・・・何か、超自然の力が働いているのだろうか。それとも、
やはり―――――

「ふう・・・。」

息が治まるまでの間、ぼんやりとそんなことを考えていたミズキは、やおら身を起こすと放り出して
あったザックを手繰り寄せた。中身を取り出し、雪の上に並べる。今夜一晩はここで夜を明かすのだ
・・・できる限り快適に過ごしたかった。
装備は最低限だった。一人用のテント、小さなランプに携帯用のストーブ。四日分の食料と好物の
ココア・・・そして、毎年の頼まれ物。

(・・・そうだ)

作業の途中で、ふと思い立ったミズキは、立ち上がると雪に突き刺したままになっていたピッケルの
傍へと歩み寄った。ゴーグルを外し、手を翳す。

ミズキ(崎沢彼方さん作画)

この霊峰エルウィーズの山頂からは、世界の国々が一望できるのだ。普通の人間であればまずお目に
かかれない景色・・・それをじっくりと眺めるのが、ここを毎年訪れるようになったミズキの楽しみの一つ
なのだった。

ミズキがまず目をやったのは、山の東側の平野だった。平野を横切る三本の川、そしてその先に
広がるワイレア海の表面が太陽の光で煌いている。
世界最大の国家フェスタ。ミズキはまだ訪れたことがなく、この見渡す限りの景色が同じ国に属して
いると言われてもピンと来なかった。
故郷のエクセールも、面積だけとればフェスタの三分の一近くはあるだろう。しかし、そのうちの
かなりは人の居住には適さない寒冷地であり、温暖で肥沃な地域はごく一部に過ぎないのだった。
次に、ミズキは山の南側に目を転じた。
南大陸の背骨とも言うべき中央山脈によって、南側の眺めはレーンディア湖の辺りまでで遮られて
いる。まだ学生だった頃に見た世界地図には、この山並みの向こうにもいくつかの国々があることが
記されていた。
毎年、一年の半分近くは雪に降り込められる古都リグレス。生まれてからずっとそこで生活してきた
ミズキにとって、冬の来ない国・・・いや、雪の降らない国があるということ自体、そもそも信じられない
ことだった。
今、世界で一番訪れたい場所はどこかと問われたら・・・ミズキは間違いなく「アミアンの熱帯雨林」と
答えたろう。一年中葉を落とすことのない木々・・・それは、故郷では決して見られないものだ。
一方、山の西側に広がる平野は東側のそれと比べてどこか寂しい印象を受ける。緑もあるが全体的に
くすんだ色であり、それがフェスタに比べてエリオットの国土があまり恵まれていないことを物語って
いた。
この国では、先住民族の魔獣族と人間との間の争いが今も続いており、そのためウォラスト以南の
治安はかなり不穏な情勢なのだという。ごく最近、魔獣族側が勢いを盛り返してきたらしいが・・・この
山頂から眺めているだけでは、平穏そうな町並みが所々に見えるだけだった。
そして、北。
左にはユノス海、右にはセルティーク海。間には、二つの海を断ち割るかのようにメクタル地峡が
あった。足元にはセルティーク海の玄関口であり、ミズキの乗った船が着いたフェザンの港町が
見える。
目を上げると、彼方には北大陸の輪郭がおぼろげに認められた。南大陸の半分もない国土に倍
以上の国家がひしめいており、東側の国々の間ではまだ領土を巡る紛争が絶えないのだという。

もう、このパノラマを拝めるのも今年が最後になるかも知れない。

(写真機・・・持って来れば良かったかしら)

一瞬、後悔にも似た思いが脳裏を過ぎったが、すぐにミズキは小さく肩を竦めた。ギリギリの体力を
要求されるこの山へは、余計なものを持ち込む余裕などないことを思い出したからだ。

「よう! 待ってたぜ。」

それからも、しばらくの間景色に見とれていたミズキは、やがて背後に人の降り立つ気配を感じた。
間髪入れずに後ろから声をかけられる。
ミズキの体がぴくん、と震えた。
毎年、この瞬間には思わず涙が出そうになる。
懐かしい夫の声。まるで、ここで夫の出迎えを受けているような錯覚に囚われるのだ。
しばらくの間、目を閉じたまま余韻に浸っていたミズキは、ややあって振り向いた。背後の岩に
腰掛けていたのは、もちろん夫ではなく・・・水色の長い髪をした一人の青年だった。
その青年は、振り向いたミズキに向かってにっと笑うと手を上げた。


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