青空
1
2
3
4
5
6
7
8
−6−
「先生、・・・先生。起きてくださいよ。」
「んん・・・?」
「もうすぐ時間です。」
休憩室のソファーで仮眠を取っていたガートルードは、助手のセレスの声に寝ぼけ眼を擦るとゆっくりと
起き上がった。
「・・・今、何時?」
「午前二時半を回ったところですよ。三時の定時観察が待ってますよ〜。」
「あ、もうそんな時間。・・・ありがとう、今行くわ。」
休憩室の入り口に立っていた助手のシルエットに向かってそう言うと、ガートルードはソファーから
立ち上がり、セレスの後について隣の研究室に入っていった。
「ごめんなさいね、こんな時間までつき合わせて。」
「え? ああ、僕はまとめなくちゃいけないレポートもあったし、丁度よかったですよ。」
「そう? それならいいけど・・・。」
「そうだ、コーヒーをいれておきましたよ。・・・目が覚めると思います。」
「まあ、気が利くわね・・・ありがとう。」
「どういたしまして。」
セレスに向かって微笑んだガートルードは、傍らの机に置かれたカップを取り上げた。ブラックのまま
口に含むと、僅かに残っていた眠気が消えていった・・・これで夜明けまで持つだろう。
「・・・おいしいわ。また腕を上げたわね。」
「そりゃそうです。ここでの楽しみはこれくらいですから・・・あ、もちろん研究以外ではってことですよ!」
ガートルードが何か言いたげな表情になったのを見て、セレスは素早く言い足した。もちろん、小さく
舌を出すのも忘れない。
このセレスという助手とガートルードの付き合いは四年前・・・卒業と同時、僅か二十三歳という若さで、
彼女が新設された竜大の農学部・森林科学科の教授に大抜擢された時から始まった。彼もまた
世界的な森林破壊を憂える一人であり、その研究に取り組む熱心な態度と持ち前の明るい性格で、
研究室にはなくてはならない存在になっていた。
「そうだセレス、あなた・・・昨日の花壇の水やり、一番隅の部分忘れなかった?」
「えぇ!?」
コーヒーを飲み終わり、定時の野外観察の準備を終えてセレスと研究室から出ようとする時・・・ふと
思い出したようにガートルードはセレスの方を振り向いた。大きなバインダーを抱えていたセレスは、
突然振られたこの話題に驚いた表情になった。
「そう・・・だったかな。えーと・・・ああ、そうだった! 途中で友達が来て、立ち話してる間にいつの
間にか・・・」
「もう、しっかりしてよね。今時期は滅多に雨も降らないんだから、植物にとってはあなたたちが頼り
なのよ?」
「すいません、うっかりしてました。・・・でも、どうしてそのことを?」
「もちろん、花壇の花に聞いたのよ。」
カレンダーは六日前から風竜の月。暦の上ではもうすっかり初夏であったが、午前三時ともなれば
さすがにひんやりとする。ランプを持って先に立つガートルードを、セレスは畏敬の念を込めた眼差しで
見つめた。
「・・・先生って、本当に不思議な人ですね。僕、この歳になるまで『自然と会話する』って単なるおとぎ
話だと思ってました。・・・本当にできるんですね、先生みたいに。」
「そうかしら?」
「そうですよ! ほら、ちょっと前来てたヴァン大の教授がいたでしょう・・・あの威張りくさった嫌な奴
ですけど。あの人、先生があんまり正確に花の咲く日や場所を言い当てるもんだから、腰を抜かして
ましたよ。」
「ふふ、そう言えば・・・フォントの桜が今年はいつ咲くかって話もしたんだっけ。」
「そのうちに、超能力者として誘拐されても知りませんよ!」
「そうね、気をつけるわ。」
深夜の大学構内、研究用に残されている小さな森の中で二人は小さく笑い合った。
(実は、本当に話をしてるんだって言ったら・・・セレスはどんな反応をするのかしらね)
胸元のブローチに目をやってくすっと笑うガートルード。それを見ていたセレスはいたすらっぽい笑みを
浮かべた。
「前々から気になっていたんですけど・・・」
「何かしら?」
「そのブローチ・・・」
振り向き、自分の胸元を指差すガートルード。
「ああ、これ?」
「はい。随分と素朴なものですけど・・・それ、恋人の趣味なんですか?」
「え?」
思わず赤くなったガートルードの様子に、セレスはにやりと笑って見せた。
「やっぱり! そうじゃないかと思ってたんですよ。」
「もう! 引っかけたの? ひどいわね。」
「すいません。・・・それで、真相は?」
「そうね・・・」
ガートルードは遠い目になった。確かに、故郷には自分を信じ力を貸してくれている大事な人たちが
いる。あの場所に帰れるのは、いつの日になるのだろうか・・・。
「恋人・・・と言えるのかしら。でも、約束したわ・・・夢を叶えたら必ず戻るって。」
「へえ・・・今時聞かないいい話ですねえ。さすが先生!」
「もう、茶化さないで。」
「それで? その『夢』っていうのは? やっぱり、竜大の教授職だったんですか?」
「ううん、そんなんじゃないの。・・・私の夢は、この研究がまとまって、それを元に自然保護の取り
組みが世界で始まることなの。」
「ふーん。・・・確か、学会と一緒にそっちの国際会議もあるんでしたよね?」
「ええ。上手くいくといいな・・・と思ってるけど。もしそうなったら、私は教授を辞めて故郷に帰る
つもりよ。」
ランプを手近な枝に提げ、バインダーを片手に観察記録を付け始めたガートルードが発した何気ない
一言に、セレスは思わず目を剥いた。
「へ!? その若さで教授になったってのに、あっさり辞めちゃうんですか!?」
「そうよ。・・・おかしいかしら?」
「おかしいですよ!!」
信じられない・・・といった表情で大袈裟に肩を竦めて見せるセレス。
「天下の竜大の教授ですよ!? なりたくてもなれない人間が山のようにいるのに・・・運良くなれた人
だって、大抵はもう棺桶に片足を突っ込んだようなじいさんばあさんばっかりじゃないですか! それを
そんなにあっさりと・・・」
「でも、教授になる予定はなかったし・・・さっきも言ったでしょう? 帰るって約束したって。」
「はあ・・・本当に、うちの先生は変わった人だ。」
「・・・セレス、なんなら次期教授として推薦しましょうか?」
「そういう意味で言ったんじゃありません! 大体、僕じゃ全然役不足ですよ!!」
「そうかしら? あなたの能力と熱意があれば、充分務まると思うけど? ・・・私ができてるんだ
もの・・・」
「先生は特別です! 僕には、自然の声を聞く力なんてないんですからね!」
戸惑った表情になったガートルードの前で、セレスはがっくりと肩を落とした。
「あーあ・・・せっかく久しぶりにいい先生に巡り会えたと思ったのに・・・」
「ごめんなさいね・・・でも、約束だから。」
「・・・分かりましたよ、もう言いません。その代わり・・・」
「・・・?」
首を傾げたガートルードに向かって、セレスは真剣な表情になると詰め寄った。
「先生の故郷のことを教えてくださいよ。先生が大学を辞めても、僕の本当の師は先生だけです・・・
必ず、自然と話をする方法を教えてもらいに伺いますからね!」
「・・・分かったわ、落ち着いたら連絡するから。できれば、あなたにも会わせたい人たちがいるし・・・」
「やった! こっちも、約束ですよ!」
そう、自然を愛する人たちに囲まれて、豊かな自然の中で暮らせたらどんなにか楽しいことだろう。その
未来に向かって自分は頑張っている・・・そして、それは今もう少しで手の届く所に来ているのだった。
この研究がまとまれば、学会で・・・いや、全世界にセンセーションを巻き起こすことは確実だった。
恐らく、すぐにでも自然保護の国際的な取り組みが始まるに違いない。
(もう少しよ。待っててね、エルム・・・)
目を輝かせたセレスを見て、ガートルードは微笑んだ。