ガーティの夢  1             

ガーティの夢


 −1−

南大陸の南端に位置する国家、アミアン。その国土の殆どは鬱蒼とした未開の森に覆われている。
折りしも霧の渦巻く中、道なき道を進む二つの人影があった。
先に立って歩く女性は、碧の髪に碧の瞳。歩く度に、首に提げられた鈴が小さな音を立てる。本人の
表情を見ても、こうして森の中を歩くのは苦にならないらしい。
一方、それを追う亜麻色の髪の少年は、その定まらない足元に悪戦苦闘している様子だった。そこら
辺じゅうにある泥濘に足を取られ、木の根に躓いては危うく転びかける。膝から下は既に泥だらけで
あり、遠からずそれが上半身にも及ぶことは目に見えていた。
足元ばかりを見て歩いていたせいだろう。程なくして、少年は張り出していた枝に顔を強かに打たれ、
足元にあった水溜りの中に尻餅をつくことになった。

「うわっ!」

ぱしゃん、という微かな音。その声に、先に立って歩いていた女性が振り向いた。

「大丈夫、カディオ?」
「これが、大丈夫に見えるならな!」

ここまでの悪路に余程気が立っていたのだろう。カディオと呼ばれた少年は、気遣いの言葉をかけた
相手を、水溜りの中に座り込んだまま睨み付けた。

「大体、これで道は合ってるんだろうな?」
「ここは精霊の森よ。精霊を信用しないで、どうするの?」
「・・・そうだな。悪い、エリアル。」

一瞬拳を握り締めたカディオは、ややあってふっと表情を和らげた。座り込んでいた水溜りから出ると、
近くの木の根に改めて腰を下ろす。

「ここは・・・どのあたりなんだろうな。」

渦巻く霧が二人を包む。森の奥へと進むにつれて、段々とそれが濃くなってきているようだ。
不意に、聞いたことのないような不気味な鳥の声が辺りに木霊する。びくりと体を震わせたカディオの
様子に、傍らに立っていたエリアルがくすりと笑った。

カディオは、十六歳になっていた。
精霊術士の国、ユックル。その首都ウセラにある精霊術士養成学校を主席で卒業したカディオに
課されたのは、一年間の実地研修だった。
世界各地に派遣されている精霊術士の元に赴き、その監督の下で精霊術の実際を学ぶのである。
戦地から極地まで、その環境は様々だった。
カディオの研修の地として選ばれたのは、南の最果ての地・・・今も精霊たちとの戦いが日夜続いて
いるというアミアンだった。
元は精霊たちの楽園だったというこの地に、人間が入り込んでからもう随分になる。次第に増える
人間たち、そしてその活動によって自然が荒らされることに危機感を抱いた精霊たちとの間に
本格的な戦が起こったのは、今から十数年前のことだった。
初めは押され気味だったアミアン側が、ユックル本国に援助を求めてきたのが二年前のこと。
国家間の交渉で、相応の金額を受け取ったユックル側から精霊術士が派遣され、以来アミアンでの
戦いは人間側の有利に運ぶようになった。

「そろそろ、行きましょうか?」
「・・・ああ。」

エリアルに促され、カディオは腰を上げた。
ユンガイナ近郊に設置された、アミアン国軍の本営を出てから既に半日。厄介なのは覚束ない足元
だけではない。この地方特有の極端な蒸し暑さも、乾燥した地域出身のカディオには辛いものだった。
一体、いつになったら今回の目的地である“精霊の聖地”とやらに着くのだろうか。
いい加減カディオがうんざりしてきた時、不意に立ち止まったエリアルがカディオの方を振り返った。

「さ、着いたわよ。」

エリアルの声にのろのろと顔を上げたカディオは・・・そのまま絶句した。
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの幅を持つ滝だった。耳を劈くような音が辺りに轟き、流れの
そこかしこにある岩場には、所々に小さな虹がかかっている。
思わず滝に駆け寄り、半ば呆然とそれを見つめていたカディオは、我に返ると後ろに立っていた
エリアルを怒鳴りつけた。

「お・・・おい、道がなくなったじゃないか!」
「精霊の聖地、ヒューレーの森へようこそ。」
「は?」
「ここは、ラツィオンの滝。私たち、精霊の聖地への入り口なのよ。」
「聖地って・・・何もないじゃないか。大体、どうやって中に入るんだよ。」
「そのことなら心配ないわ。ほら、お迎えが来たみたいよ。」
「え?」

涼しい顔で、エリアルが答える。
いつの間に現れたのだろうか。気が付くと、カディオとエリアルは槍を構えた水精数人に取り囲まれて
いた。その中から、隊長格と思しき一人が進み出る。

「何者か! ここからは我ら精霊の聖地、許可なく立ち入ることは罷りならん!」

呆気に取られた様子で、この決まりきった台詞を聞いていたカディオは、やがて小さく肩を竦めた。

「なるほど。ここは確かに“精霊の聖地”らしいな。」
「おい、貴様! 何がおかしい?」
「わざわざここが聖地だって、自分から言わなくてもいいだろう。」
「な・・・何い!?」

顔を赤くした相手に向かって、カディオは堂々と名乗った。続いて、用件を口にする。

「俺はカディオ。お前たちの長に会いにきた。」
「お・・・長にだと!? 一体、何の用だ!?」
「お前たちは人間と戦っているんだろう? その戦いに勝つ方法を教えに来たんだ。」
「なんだと!!」

予想だにしなかったカディオの台詞に、水精たちは唖然として顔を見合わせた。戸惑いを隠せない
隊長に向かって、カディオが迫る。

「し・・・しかし。長が、人間にお会いなさるはずが・・・」
「聞いてみなけりゃ分からないだろう。どうする? 取り次ぐのか、取り次がないのか。」
「う・・・うう。・・・分かった、訊くだけは訊いてみよう。・・・おい!」
「はい!」

隊長が顎をしゃくると、部下のうちの一人が慌てて滝の向こう側へと駆け去っていく。その様子に、
エリアルがくすっと笑った。
去っていった部下が戻ってくるまで、他にやることもない。カディオを後ろ手に縛り上げた隊長が、
傍らに立っていたエリアルに徐に話しかけた。

「そなたは・・・水精だな。見たところ、かなり高位のようだが・・・なぜ、この人間と共にいるのだ?」
「私?」
「そうだ。この国では、精霊と人間は仇敵とも言っていい間柄だからな。・・・逃げるならば、止めは
せんが。」
「ありがとう。でも、私はこの子の傍を離れるつもりはないの。」

にっこりと笑ったエリアルを、隊長は眩しそうに見つめた。その背後から、カディオのからかいを含んだ
声がかけられる。

「おいおい、今は仕事中だろう。エリアルを口説くんなら、非番になってからにしたらどうだ。」
「な・・・何だと!?」
「後で長に“お咎め”を受けても知らないぜ?」
「こ・・・この人間風情がぁ!!」
「隊長ー!」

顔を真っ赤にした隊長が、その手の槍をカディオに向かって突き出そうとしたまさにその時、先程の
部下が戻ってきた。そして、そのまま隊長に耳打ちする。

「な・・・何だと!?」
「ですが、確かに・・・」
「ううむ・・・信じられん。」

驚きに目を瞠った隊長は、渋々といった様子でカディオに向き直った。

「長が、お会いになるそうだ。・・・案内する。」
「そうか。・・・残念だったな。俺を八つ裂きにできるのは、もう少し後のことになりそうだな。」
「く・・・この、さっさと歩け!」
「ああ、分かった分かった。」

にやりと笑ったカディオは、隊長の後について歩き出した。

「全く・・・長は何故、このような奴を・・・!」

ぶつぶつと不満げな呟きを漏らしながらも、隊長は滝の前に立つとその槍を翳した。すると、滝の
流れが二つに分かれ、道ができる。
人跡未踏の地、“精霊の聖地”ヒューレーの森の中心部はすぐそこにあった。


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